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図鑑データ
阿武隈の概要、覚えてくれました?
「こ、こんにちは、軽巡、阿武隈です。」
珍しく同型以外の艦娘との関係を図鑑で話してくれる艦娘。
史実で艦首大破の追突事故を起こしてしまった北上には苦手意識、史実で大破時に護衛してくれたり沈没後に救助してくれた潮には感謝の念を抱いている模様。
なお北上との衝突事故による修理を機に艦首を改修したり、歴代水雷戦隊の旗艦を務めたためか、長良型とは別扱いのレア艦扱いとなっている。
ちなみに衝突事故は阿武隈の方が加害者だったりする。一体艦娘になるまでに二人に何があったのだろうか…
容姿、ご期待に応えます!
明るい茶髪にスカイブルーの瞳。
一見しただけでは構造の掴めない複雑怪奇な髪型が特徴であり、本人もかなり気を配っている様子で、よく髪型をセットしなおしたりしている自慢の髪である。
服装や偽装は由良や鬼怒と一緒で両腕と腰の両側に単装砲を一門づつの計四門備え、薄緑と白のセーラー服を着用し、足にはブーツを履いている。
性格、やるときはやるんだから!
大人しくちょっと自信がなさげで神経質。自分の名前が難しいのを気にしている。
しかし、史実では沈没し除籍するまで一貫して水雷戦隊の旗艦を務めた偉い子である。
そのせいか負けず嫌いで見た目以上に子供っぽいとこもある。なにより声が非常に幼い。
提督に関しては必要とされたいと思っており、必要とされると目に見えて喜ぶ。逆に放置ボイスなどでは不必要になったのではという不安が見て取れる。
また時報でも美容を気にしている割に深夜まで提督に付き合ったり、遠慮がちに提督と一緒に居たいというなど、その愛情も深いようだ。ちなみにお触りでは髪が崩れると反発するが、お触り自体は否定していないことから、提督LOVEの一人だと考えられている。
関わりの深い艦
衝突事故のせいで苦手。
とはいえ、艦首改修のきっかけでもあるので怪我の功名とも。
正確には阿武隈が北上に突っ込んだので別に北上を怖がる理由はないのだが、どうもその一件で恨みを買ってしまっているのが原因らしい。
母港台詞を聞く限り北上が阿武隈の前髪を触るせいで髪型を崩されてるらしく、その事から苦手意識を持ってるようだ。北上さんも阿武隈の前髪が気になってるのだろうか?
ちなみに公式4コマでは阿武隈の首を狙う北上さんの姿を見ることが出来る。
スリガオ海峡海戦にて被弾した際、護衛艦として随伴。
応急処置を受けてから阿武隈が沈没するまで随伴し、沈没時に潮が生存者の救助を行なっている。
四人併せて、クマーカルテットを構成……しない。
それどころか、クマーにはあと二人いたりする…。(クマ艦隊)
実は第六駆逐隊の4人は、第一艦隊・第一水雷戦隊旗艦である阿武隈の直属であった。
……が、艦これではあまりその点は触れられておらず、コストパフォーマンス上の観点からか入手難易度からか、むしろ天龍との関わりのほうが強そうである(艦これ名物天龍幼稚園)。
夜戦開始時台詞で「夜戦バカには負けない」と言っているがこれには理由があり共に同じ第一艦隊の水雷戦隊の旗艦を務めていた(阿武隈は一水戦、川内は三水戦)でありまた旗艦の仕事をシフト的に交代していた事もあった。その辺りを「同期に対するライバル心」として反映したのであろう。
余談になるが所属する第一艦隊の兵員食コンテストがあった際、阿武隈は巻き焼(卵焼きの一種)を出して無評価、川内はイワシの揚げ団子を出して高評価を得ている。
提督、関連タグよ! 成績はどう?
史実における軽巡洋艦・阿武隈
史実でも数々の艦隊旗艦を歴任した軽巡である。
- 1921年12月8日に浦賀船渠で起工、1923年3月16日進水。艤装中に関東大震災が起こり、造船所の施設が被害を受けたため、完成は1年以上遅延し、就役は1925年5月26日。その後は1925年6月に第1艦隊第3戦隊に編入された。
- 1930年10月20日、大演習中に軽巡洋艦「北上」と追突事故を起こし艦首を損壊したため呉工廠で修理を行った。その際に艦首をダブル・カーベチュア型(ダブル・カーブ型)に変更したが、この形状は長良型では阿武隈のみである。
- 1943年7月に島風や響等を率いてキスカ島撤退作戦に参加。その際に霧のため島影を敵艦と誤認し、右魚雷戦の号令で魚雷4本を発射。見事に全弾命中したそうである。この時の様子を、阿武隈水雷長の石田大尉が詠んだ狂歌がこれ「一番が 敵だ敵だとわめき立て あっと打ち出す二十万円」。一番とは見張り員のことで、20万円は現代では20億円相当である。魚雷は1本で一等地に家が立つほど高価なものだった。また陸軍部隊を無事に収容した後、阿武隈主計科では炊飯を行いおにぎりを配った。撤収部隊は、敵に発見されないように煙があがる炊飯は禁止されていた為にカンパンを配るはずであったが、「苦労した味方にカンパンでは主計科の恥」との心意気で実現したおにぎりである。その時の陸軍兵士たちは終戦後に「うまかった」と回想している。
- 1944年10月、第5艦隊の遊撃部隊(21戦隊1水戦)として、スリガオ海峡に突入。
10月25日、レイテ沖海戦に参加し、スリガオ海峡海戦において敵魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が艦首第一砲塔の下に命中、第一砲塔員および弾薬庫に発生した一酸化炭素が電信室に漏入し電信員、暗号員の大部分を含む戦死者五十余名を出し、速力は低下。旗艦は駆逐艦「霞」に変更になり、第一水戦司令官ならびに幕僚は「霞」に移乗した。「阿武隈」はその後撤退命令を受け駆逐艦「潮」を伴い戦線を離脱。夜明けとともに米軍機による攻撃を受ける。攻撃は同じく損傷を受け待避していた重巡洋艦「最上」に集中し、これを撃沈。その後「阿武隈」はP-38戦闘機による機銃掃射を受けるも対空機銃により応戦、これをなんとか撃退する。
- 翌26日、ミンダナオ島ダピタンで応急修理を行い、駆逐艦「潮」とともにコロンへ向け出航。だがその途上で「B-24爆撃機」30機の攻撃を受けた。この攻撃で250kg爆弾により直撃弾3発、至近弾4発を受け、上甲板の人員は全滅、艦橋の人員も大部分が負傷または戦死。機関停止し火災も発生。米軍機は「阿武隈」を無力化したとみて攻撃目標を「潮」に変更した。「阿武隈」は停止後も必死の応急処置によりなんとか浮かんでいたが、発射管の魚雷が誘爆し、艦体に亀裂が生じ、重油が流出した。これに及んで総員退去命令が下され生存者は艦首より退艦、3時間後に艦首を立てた状態でネグロス島沖に沈んだ。
- 沈没位置:北緯9度9分 東経121度54分 1944年10月26日 午後0:42 戦死者512名。生存者はなんとか米軍機の攻撃を回避した駆逐艦「潮」に救助され、全員マニラへ送り届けられた。
- 1944年11月20日に除籍
(Wikipediaより引用)