西行(1118-1190)は代々朝廷に仕える武家藤原氏出身の武士であったが、わずか23歳にして出家し、源頼朝が征夷大将軍となる2年前、73歳までの生涯を送った人物である。歌人として知られ、新古今和歌集に至る当時の歌壇に大きな影響を与えた。『小倉百人一首』にも次の歌が選ばれている。
なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
現代語訳例: 私は恋人が冷たいと嘆く。それは月がそのような物思いに耽らせているのであろうか。いや、そうではない。月のせいにして流れるのだ、愚かなる私の涙が。
生涯
丁度平清盛と同年の生まれである。出家する前の名は佐藤義清という。藤原氏の生まれといっても、貴族摂関家ではなく傍流の出身。その祖先は平将門を討ち近江三上山の百足退治の伝説でも知られて武勇に定評ある武士藤原秀郷である。祖先の名声を引き継いで代々皇居の警護等を司る武士であり、祖父の代から佐藤姓を名乗る。各国の国司も務めており、諸国に多くの私有地を得て裕福な豪族でもあった。
義清もまた鳥羽上皇に仕えるエリートコース北面の武士の一員となった。武芸ばかりか有職故事にも詳しく学問があり、中でも和歌に優れており、将来を期待されていた。しかし理由は不明ながら23歳で出家し、すがりついて泣く4歳の娘を縁から蹴り落として家を出たという(生前から多かった西行に関する伝説や説話を集めた鎌倉時代中期成立の『西行物語』が出典)。
出家してからも京都近郊に滞在して俗世の人々と交流があり、また諸国を旅し、多くの和歌を詠んだ。歌壇に対しても影響力があり、当時新進歌人に過ぎなかった藤原定家を自らの和歌集『宮河歌合』にて登用して判を請うている。
その死も伝説に彩られており、かつて詠んだ
「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」
という歌の通り、桜の花が咲き乱れる陰暦2月16日に弘川寺にて世を去った。この寺には西行桜と呼ばれる桜が今も残っている。