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戦艦朝日の編集履歴

2014-10-16 23:25:45 バージョン

戦艦朝日

せんかんあさひ

大日本帝国海軍の前弩級戦艦で、敷島型の2番艦。

艦名の由来

艦名は本居宣長の和歌の「敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」の歌から来ている。当時「大和」は既に艦名として使われていたため、「敷島」に続いて朝日が艦名に選ばれたと推測される。


戦艦であるが、旧国名ではなく和歌に書かれている言葉から来ているが、これは本艦を含む敷島型はこの時代艦名の命名基準が定めていなかったことに由来する。


同型艦は敷島初瀬三笠


建造の経緯

1897年度の「第一、二期海軍拡張計画」により「第二号甲鉄戦艦」としてイギリスの都市クライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された。公試の帰りに座礁する事故があり、竣工が予定より約3カ月遅れたという。1900年7月31日に竣工し、日本への引き渡しにイギリスを出発、同年10月23日に横須賀に到着した。日本海軍としては4隻目の近代的戦艦となった。


艦全長129.62m 常備排水量:15,200トン

船体形状は敷島と同じく甲板型船体である。船体中央部には等間隔に並んだ2本の煙突が立つ。煙突の周囲には煙管型の通風筒が立ち並び、その外縁部を見てみると艦載艇置き場となっており、舷側に2本で1組のボート・ダビットが片舷4組ずつ計8組と艦載艇置き場の後ろに立つ後部ミリタリーマストに付いたクレーン1基により運用された。後は、敷島と同じ構造で造られていた。


戦歴

1904年、日露戦争が勃発し、第一艦隊第一戦隊に所属された。同年8月10日には、同型艦3隻と共に黄海海戦に参加し、最前線で活躍した。翌年の1905年5月27日、28日に日本海海戦にも参戦された。連合艦隊の損失は軽微という海戦史上まれな一方的勝利となった。

第一次世界大戦では1918年に、第三艦隊第五戦隊の旗艦としてウラジオストック方面の警備に従事した。1921年には海防艦へ類別が変更されている。

練習特務艦として

1923年にワシントン海軍軍縮条約により、練習艦として保有が許されたので兵装を撤去され、練習特務艦となった。このころに第70潜(呂31)、第43潜(呂25)と潜水艦事故が続けて起こった為、1925年、潜水艦救難設備を設置した。これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理だった。

工作艦として

1931年に簡単な工作設備を設置した。1937年には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので呉海軍工廠特急工事により工作艦に改造され8月15日に工事完了、8月16日には類別を工作艦に変更し中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した。やがて本艦工作部は陸上に移り第一海軍工作部と改称したため本艦は日本へ戻り、1940年11月からは連合艦隊付属となった。この時、第二艦隊に所属しカムラン湾へ進出した。


最期

太平洋戦争開戦により第2艦隊に配属されカムラン湾に進出し、1942年には、シンガポールが陥落すると翌月には同地に進出、同じ工作艦の「明石」と共に損傷修理に活躍した。同年5月22日に自身の修理と北方方面への移動の為にシンガポールを出発、日本へ向かった。しかし旧式低速の大型艦であったため敵潜水艦の格好の目標となってしまい、5月25日の深夜にカムラン湾南東で米潜「サーモン」の雷撃を受け左舷に2発が命中、翌26日午前1時過ぎに転覆沈没した。


関連タグ

練習特務艦 大日本帝国海軍 前弩級戦艦 工作艦

朝日(無印)

同型艦

戦艦敷島 戦艦初瀬 戦艦三笠

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