平安時代末期の武将、公卿。平忠盛の五男で母は藤原宗子(池禅尼)。六波羅池殿に屋敷を構え、池殿あるいは池大納言と呼ばれた
平家の棟梁平忠盛の正妻とされる池禅尼の子であるが、父の死に際してはまだ20歳であり、家督は15歳年上である兄の平清盛が継いだ。しかし17歳で常陸介となり、一族では清盛に次ぐ立場にあった。
保元の乱においては母が「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と命じた(『愚管抄』)ことで後白河天皇方につくことになった。平治の乱では甥の平重盛と共に大内裏攻撃軍を率い、父から拝領した名刀「抜丸」を振るって奮戦する姿が『平治物語』に遺されている。
平家政権では重盛、次いで平宗盛の元で一族の重鎮となっていた。しかし清盛の死後に源氏勢に敗れた一族が西国に逃れると、京都に残ることとなった。頼盛が京都に残留した理由は不明である。清盛・宗盛親子に逆意を抱き、源頼朝に通じていたとも、ただ単に置き去りにされたとも言われていているが、いずれにしろ、頼盛が鎌倉で頼朝と会い、荘園33ヶ所を安堵され、権大納言として朝廷に復帰したことは事実である。なお、頼盛の子孫は池氏を名乗り御家人として鎌倉幕府が滅亡するまで仕えている。
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平清盛(長兄)
平家盛(次兄、同母兄)