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平頼盛の編集履歴

2015-01-27 12:25:49 バージョン

平頼盛

たいらのよりもり

平清盛の弟。鎌倉時代も御家人として存続した平姓池氏の祖。

平安時代末期の武将公卿平忠盛の五男で母は藤原宗子池禅尼)。六波羅池殿に屋敷を構え、池殿あるいは池大納言と呼ばれた。平清盛の義弟に当たる。


平家棟梁平忠盛の正妻とされる池禅尼の子であるが、父の死に際してはまだ20歳であり、家督は15歳年上である兄の清盛が継いだ。しかし17歳で常陸介となり、一族では清盛に次ぐ立場にあった。


保元の乱においては母が「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と命じた(『愚管抄』)ことで後白河天皇方につくことになった。平治の乱では甥の平重盛と共に大内裏攻撃軍を率い、父から拝領した名刀「抜丸」を振るって奮戦する姿が『平治物語』に遺されている。


平家政権では重盛、次いで平宗盛の元で一族の重鎮となっていた。その一方で後白河法皇が率いる院政の要職にも就いており、八条院との関係も深かったため、平家側と院政側のパイプ役を担ってもいたが、両者の対立が深まるにつれて微妙な立場で苦しむことになる。

ついに清盛が後白河院からの圧力に耐えかねて起こしたクーデター「治承三年の政変」では、院政の要人達のほとんどが要職を辞めさせられた中に頼盛も含まれていた。さらに後白河院が幽閉された時は、「清盛が頼盛を討つ」「頼盛の所領が没収される」「頼盛と清盛が武力衝突した」と誤報が飛び交った。それほど頼盛は清盛にとって無視できない存在と立場にあり、対立もありうると推測もあった。しかし実際の頼盛は、「ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル」と全面的恭順姿勢を見せた。その後は平家の中枢格で存在を保つことができた。


清盛の死後、源氏勢に敗れ続ける宗盛率いる平家一族は西国へ都落ちを決断するが、頼盛は京都に残ることとなった。頼盛が京都に残留した理由は不明である。清盛・宗盛親子に逆意を抱き、源頼朝に通じていたとも、ただ単に置き去りにされたとも言われていているが、いずれにしろ、頼盛が鎌倉で頼朝と会い、荘園33ヶ所を安堵され、権大納言として朝廷に復帰したことは事実である。頼朝が頼盛を生かした理由としては、院政側とのパイプ役として役立つ人物であり、かつて平治の乱で処刑される頼朝を池禅尼が助命した恩があったためと言われる。なお、頼盛の子孫は池氏を名乗り御家人として鎌倉幕府が滅亡するまで仕えている。


頼盛は清盛と同じくらいと言えるほどの力を持ち、もしかしたら彼が平家の棟梁になっていたほどの人物であった。その一方で平家・院政・源氏と多方面で関係を持っていながら、距離も持っていた、ある意味平家の中で最強格の微妙な人物であった。


関連タグ

平家 平安時代

平清盛(長兄) 平家盛(次兄、同母兄)

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