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関白の編集履歴

2014-12-24 06:44:36 バージョン

関白

かんぱく

古代・中世にかけての朝廷官職 天皇の権限を代行して政治を行う

かつての日本の官職。天皇の権限を代行して政治を行う。敬称は「殿下」。


語源は「(天皇の言葉を)関り(あずかり)白す(もうす)」という任命の詔による。その由来は、中国前漢王朝にて、民間で育てられていた宣帝が絶対権力者であった大司馬大将軍霍光に擁立されて即位した時、「上奏は全て霍光が関り白すようにせよ」と命じた故事にある。霍光が博陸候であったことから、関白の別名を「博陸」とも呼ぶ。引退した関白は太閤と呼ばれた。


天皇の幼少時に摂政の職にあったものが成人後に引き続きこの役職に着くことが多かった。また公卿というよりも天皇の代理人であるため、朝廷の最高意思決定機関である太政官の議政官(いわゆる陣定)には出席しない慣例があった。このような関白の政治権力の源泉は、内覧、すなわち「法案の最終稿を天皇に先んじて読むことのできる権利」であるため、正式には関白に任じられずに、あるいは任じられる前から内覧の権利のみで関白と同等の権力をふるった者もいる。例えば摂関家全盛期と言われた藤原道長の政権は、長く道長が内覧兼左大臣として全権を掌握していた。道長は後年摂政にはなっているが、関白には就任していない。


時代が下ると武士のトップである征夷大将軍に対する公家のトップとしての意義が大きくなった。江戸時代になると幕府のシンパが関白の職につき、朝廷の動きを制限するようになったため、王政復古の際に征夷大将軍とともに廃止された。


転じて、一家の亭主(夫)が家内の全権を握っている状態をさして「亭主関白」と称することがある。ま、実態は女房が(実権的意味で)関白な家の方が圧倒的多数だろうが…。


関連人物

藤原道長:「御堂関白」と称されるが実際には関白に任じられたことはない。前述の内覧の代表例。

豊臣秀吉:関白を退いた後太閤として実権を握り続けた為、現代では太閤と言えば概ね秀吉を指す。

さだまさし:楽曲「関白宣言」の作詩・作曲・歌唱者。


関連タグ

摂政 藤原氏 平安時代 太閤

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