寺沢武一
投稿漫画賞の賞金目当てで漫画を送っていたが、徐々に本格的に漫画家を目指したくなり手塚プロダクションのアシスタントに応募、しかし手塚治虫に対してそれ程思い入れもなく、まだ若く世間知らずな為か態度が悪かったらしく採用担当は不採用に決めるが、たまたま絵を見た手塚治虫が「こんな凄い絵を描ける奴を何で落とすんだ!」と鶴の一声で採用。
その後手塚治虫の下で修行を積み、読み切り短編「コブラ」にて漫画家デビュー。
綿密なタッチの作画、独特な世界観とデザイン、妖艶な女性キャラクター、そして三枚目なルックスにしてハードボイルドな性格であるコブラのキャラクター造形から人気を博した。
作画にこだわるあまり週刊連載に満足できなくなり、コブラは途中からある程度書きためてから連載するというやり方になった。
コブラの他にも「ゴクウ」、「鴉天狗カブト」等を連載している。
98年に大病を患い、闘病のため活動は休止していたが、近年見事に復帰しコブラの新作「マジックドール編」を連載した。
漫画にパソコン技術を用いたパイオニアでもあり、昨今のCGコミックに多大な影響を与えている。
CG作画による漫画第一号は「黒騎士バット」という漫画で1985年に発表。当時のPCの仕様限界からあまり高評価は貰えなかったらしい。いつの時代も先駆者は苦労が多いのである。
そもそもデジタル作画に手を出すようになった理由は、手塚治虫が死の前にパソコンで絵を描くことに対して意見を求められたとき「寺沢君にやらせてみたらどうかな」と、漏らしたのを死後に聞いて師の遺言と解釈した事によるが、癌と知らされていなかったことを後に知り、そんな重い話ではなく雑談の一環だったことを知ったと言うエピソードがある。
アメコミ影響説について
アメコミっぽい作風の漫画家として漫画読者方面から有名だが本人はもともとはアメコミに手を出したことはあまりなくなく、COBRAにもそれほど意識していないという。
ただ、師匠である手塚治虫からディズニーアニメ作品(特にピーターパン)をCOBRAを描く際に意識しなさいと指摘されてそれを表現して描きあげたという逸話があり、ミックという某ネズミことディズニーのシンボルキャラクターにランプの魔神ネタなど多数のキャラクターがディズニーキャラを元ネタにして考案したとの事。
また、アメリカでは1977年に原作コミックが創刊されて1981年に劇場アニメ版が封切りされた米国のバイオレンス作品ことHeavyMetalには根強い影響を受けたことを語っている。