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手塚治虫

てづかおさむ

手塚治虫は、日本の漫画家、アニメーション作家。「マンガの神様」の呼称で知られる。
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1928年11月3日生まれ。兵庫県宝塚出身(出生は大阪府)の漫画家。
1989年2月9日没。享年60歳。明治天皇と同じ日に生まれ、昭和天皇と同じ年に死す。

「命をかけて漫画を描く」というのを比喩表現でなく実践し最後まで漫画を描いて死んだ人物。

概要

人呼んで「漫画の神」

日本のストーリー漫画の開祖として知られる。

彼に関する研究本は1000冊を超え、日本漫画家では一番の量を誇る。その与えた影響の強さは漫画の歴史の本にはほぼ100%手塚治虫の名前が書いて有るほどである。
没後25年の2014年になってさえ漫画のアカデミー賞と呼ばれるアイズナー賞で翻訳作品が受賞するなど、現代でさえ評価の高さは衰え知らずである。

それまで舞台劇視点の演出で笑い・こっけいさという喜劇的要素が主体であった従来のマンガに悲劇性を伴う物語性のエッセンスと、映画におけるカット割りを導入した「演出」という概念を持ち込み、革命を起こしたとされる。

トレードマークはベレー帽黒縁眼鏡団子鼻
「治虫(おさむ)」と言う名前は、甲虫のオサムシになぞらえてつけたもの。最初の読みは「オサムシ」だったが、ペンネームの後に「氏」をつけると、「オサムシシ」となるため、「オサム」に変更したようだ。本名は「治(おさむ)」。

代表作は『鉄腕アトム』、『ブラック・ジャック』、『火の鳥』、『ブッダ』、『リボンの騎士』、『ジャングル大帝』、などに代表されるヒューマンドラマが特に高い評価を受け、知名度が高い。

その一方で『MW(ムウ)』のような人間の醜さや業を描いた作品や、『アラバスター』『バンパイヤ』などの妖しい魅力に溢れたグロテスクな作品を好んで描いたことも知られている。『きりひと讃歌』『鳥人大系』『人間昆虫記』など、人間の心の闇を描いた、救いのないほど暗い作品も多い。

大人向けの雑誌に連載され文学作品のように受け止められたものに『陽だまりの樹』や『アドルフに告ぐ』『ばるぼら』等がある。

また商業としてのTVアニメの地位の確立に私財を投じてまでも尽力しており、漫画だけでなくアニメの分野でも大きな足跡を残している。

手塚治虫が開拓した分野

●日本におけるストーリー漫画の開祖(というか、手塚治虫の影響下にある漫画を指す呼称として「ストーリー漫画」という語が作られたのである)
●日本で最初に主要人物が死亡する漫画を描く(地底国の怪人)
●日本最初の連続TVアニメシリーズを制作する (鉄腕アトム)
●日本で最初のカラーTVアニメを制作する(ジャングル大帝)
●日本で(おそらく世界でも)最初に育児漫画を描く(マコとルミとチイ)
●日本で最初に漫画のアシスタント制度を導入する
●アシスタント用語の「ベタ」は手塚が使い始めた。現在のアシスタント用語としても使われる。
●日本漫画で最初のボクっ娘(リボンの騎士)
●日本漫画で最初のネコ耳キャラを登場(ヘケート)
●日本の戦う少女の原型(のひとつ)を作り上げた(リボンの騎士、ただし諸説あり)
●女の子の猫口(ω ←これ)の開発 (ピノコ等)
●萌え要素としてのアホ毛を一番はじめに行う。(低俗天使)
●現在はよくある女の子の目の下あたりに///の斜線を引いてこのキャラはかわいいですよという記号を作る。

略歴

生まれは関西の裕福なサラリーマンの家庭であり昭和初期としては大変恵まれた家庭環境に育った。両親も漫画好きで子供の漫画趣味に理解があり、田河水泡の『のらくろ』シリーズをはじめ200冊以上の漫画本が揃っていた。当時としては珍しく家に映写機がありチャップリンの喜劇やディズニーフライシャー兄弟などのアニメ作品を好きなだけ見ることができた。また、ジョージ・マクマナス、ミルト・グロスなどのアメリカの漫画作品、松本かつぢ少女漫画などにも親しんでおり、デビュー初期の手塚の絵柄は戦前の少女漫画とアメリカのコミック・アニメーション文化の影響が極めて強い。

小学生時代の治は漫画の上手い子としてクラスからも一目置かれる存在だったが、中学校になると戦争が影を落とすことになる。勤労奉仕中に漫画を描いているのを発見されて殴られたり、大阪空襲に遭遇して九死に一生を得るなどの体験が後の反戦思想に影響した。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。終戦直前に高校受験に失敗、大阪帝国大学附属医学専門部に合格し、医学生となる。

プロとしてのデビューは医学生時代に発表した4コマ漫画『マアチャンの日記帳』で、間もなく関西の新聞に4コマ作品を複数連載するようになった。その後書き下ろしの赤本「新宝島」を描き、赤本ブームを起こし、戦後関西に彗星のように現れた若き漫画家として多忙を極めるようになった。この頃は大阪の出版社からの描きおろし漫画がメインであった。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなったため母に相談し、「医学より漫画が好きなら、漫画家になりなさい」という一言で漫画家に専念することを決めたという(ただし医学専門部は1年留年して卒業し、医師免許も取得している)。

そして卒業直前から「ジャングル大帝」で雑誌連載に重点を移し、東京に転居、少女漫画青年漫画、大人漫画などジャンルを問わない活躍をみせた。しかし東京ではスポ根漫画家の福井英一との猛烈な競争に苦しみ、さらには桑田次郎武内つなよし横山光輝など後輩の売れっ子漫画家が次々と出現するなか、一時ノイローゼに陥ったりしている。

1959年に結婚。手塚眞(1961年生まれ)をはじめ3人の子に恵まれた。1962年に「虫プロダクション」を設立し、日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』の放映を成功させる。

1960年代末、人件費の高騰で虫プロダクションの経営が傾くなか、劇画の流行で「時代遅れの作家」というレッテルを貼られ一時不振に陥ったが、少年チャンピオンの『ブラック・ジャック』、少年マガジンの『三つ目がとおる』で復活。代表作とされる『ブッダ』、『火の鳥』の連載もこの時期と重なっている。

作風

4コマから大長編漫画まで、子供向けから大人向けまで、ギャグ漫画からシリアスな社会派漫画まで幅広い。

「ペーター・キュルテンの記録」のようなドロドロとしたものも描くが、「ドン・ドラキュラ」や「アトムキャット」のようなほのぼのとした作品も描く。彼の遺作である『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』はいずれも作風を変えており、『ルードウィヒ・B』は少年向け作品、『グリンゴ』は大人向け作品、『ネオ・ファウスト』は青年向け作品である。

初期に単行本で作品を発表していた時期は、『来るべき世界』に代表されるような緻密に構成されたストーリーが特徴であった。しかし手塚も雑誌連載が主となってからは、読者の反応を見ながらストーリーを変更することや、多忙もあって設定や構成を細かく準備せずにスタートし、執筆しながら展開を考えていくことが多くなった。

例えば、『どろろ』の終盤で明かされる主人公の一人どろろの秘密は後付設定であることや、『キャプテンken』は重要な謎が連載中に読者から当てられたため、途中で変更されたことはファンの間で有名である。

基本的な絵柄はデフォルメ色の極めて強いアニメ的なものだとされるが、作品によっては、一見手塚作品には見えないほど作風を変えていることもある。

1960年代に連載した『人間ども集まれ!』や『上を下へのジレッタ』などの絵柄は小島功やナンセンス漫画の影響が強く、内容も従来の手塚作品とは大きく異なっており、ファンからは評価も高い。劇画流行時には水木しげる風の点描や写実的な背景を取り入れたり、晩年には大友克洋経由でフランスの漫画家メビウスのタッチを「メビウス雲」「メビウス線」として自作に取り入れるなど、時代の流行に合わせた絵柄の変化には積極的であった。

手塚漫画における絵は「ストーリーを語るための絵」として意味が大きく、手塚は1コマの絵画的完成度を高めるために時間を使うよりも、作品を多く描きたいというタイプであった。ある時、少年マガジンの編集者が「先生は見開きの中で、特に重要視しているコマというものはありますか?」と手塚に質問したところ、「ありません!」との即答だったという話も存在する(『虫ん坊 2010年9月号』より)。

ただし、1950年代初期の作品は丁寧なタッチで描かれており、特に人物が細かく描き分けられた群衆シーンなど、1コマ1コマに手間をかけてでも絵の魅力を重視していた時期もある。

コマ割りの実験の元祖と目されるだけあり、非常に凝ったコマ割りが豊富。コマからハミ出す表現は当然の事、コマ線をぶち破ったり引き千切って武器にしたりするほか、ぐるぐるのコマやぐちゃぐちゃの大胆なコマなどが一部の(主に対象年齢の高い)作品で見受けられる。

手塚治虫は物語に仕掛けを仕込むことも多く、『W3』では日本漫画史上にない仕掛けをラストに仕込み当時の子供達を驚愕させ、『陽だまりの樹』では最後の一コマで驚きの内容を伝え、事前知識の無い人を驚愕させた。

手塚は自身の考案したキャラクターを複数の作品に登場させることを用いたことでも有名(手塚スターシステム)だが、これは友人や友人の関係者を毎回登場させていたことが始まり。手塚スターシステムの第一号キャラは友人の祖父をモデルにした「ヒゲオヤジ(伴俊作)」である。また友人をモデルにした「アセチレンランプ」もデビュー前に誕生している。彼らは手塚漫画最初期から晩年まで登場し続けた。

なお、手塚漫画にしばしば登場する「ヒョウタンツギ」「ママー」「スパイダー」といったキャラは手塚治虫の・美奈子が子供時代に考えたキャラであり、兄妹の間では漫画のキャラを共有していい決まりだった。これらは、ラブシーンやシリアスな展開を描いてしまった時に、手塚が照れ隠しで登場させることが多い。

よく知らない人からは「難解」「堅い」「高尚」といったイメージを持たれている(特に晩年に描かれた青年漫画)ことがあり、確かに「火の鳥」などそのような傾向のある作品もなくはないが、実際の手塚作品は娯楽性を重視した作品が多数である。

歴史や科学技術を題材にした作品であっても漫画的なハッタリを大事にしており、それは専門の医学も例外ではない。『ブラック・ジャック』の後書きで東大医学部の学生から「そんなでたらめをかくのなら、漫画家をやめちまえ。」と怒鳴られたことがあったと明かされているが、これに手塚は「でたらめなことがかけない漫画なんて、この世にあるものでしょうか。」とコメントしている。

自身のストーリー漫画の画期性を「悲劇性の導入」と主張したことからも分かるように、登場人物が死んだり悲劇に終わることも多く、ちなみに日本の漫画で主人公の死を描いたのは手塚の「ロック冒険記」が最初である。

今でいう「ケモナー」的な趣味があり、ボッコ隊長など色気のある擬人化動物を描いた。また、人間が動物(特に犬)に変身するというモチーフは「バンパイヤ」「きりひと賛歌」「火の鳥 太陽編」など、度々登場する。2014年には机の引き出しから未公開・ボツ原稿の他にケモエロを含む沢山の落書きが発見されており、そちらの方でも先駆者であったことが窺い知れる。

幼少時より故郷の宝塚で宝塚歌劇団のレビューに親しんでいたことや、昆虫の雌雄嵌合体を目にした影響などから、曖昧模糊とした性別的要素を持ったキャラクターを好んで創作していた。特に「男だと思ったら女の子だった」という男装ネタは非常に多く、手塚作品に登場した男装キャラは数え切れないレベルである。

人物

仕事は能力の限界かそれ以上を常に引き受け、また、大御所であるのに仕事の依頼が入りやすいよう原稿料は低く抑えていた。編集者時代の鈴木敏夫が手塚と仕事をした際には「原稿料は幾らでもいい。僕のは単行本になれば売れるから」と言われたという。

殺人的な仕事量を(月産300ページ以上+アニメ+講演+審査員)こなしながら仕事に対して異常なまでの完璧主義で、一切の妥協を許さなかった。休暇はなく、移動中にも漫画を描き続け、ゆれる車内でもほぼ問題なく作業できるほどの技量を持っていたが、その完璧主義とあまりに多い仕事量から、締め切り破り・逃亡の常習犯として編集者から恐れられていた。それを表すエピソードの一部として「中国で無断発行された海賊版を訂正させるためにタダ働きした」といった出来事が語られている。

睡眠時間は一日2~3時間であり、NHKがテレビ取材に来た時には3日間ほぼ全く寝ないで仕事をし、NHKの取材陣は驚愕したというエピソードがある。その光景は全国放送された。松本零士は学生時代に手塚の仕事を1週間手伝った時に、手塚が1週間全く寝る姿を見ずに終わり驚愕した。

多忙な生活にも関わらず、交友関係の広さは有名だった。駆け出しの漫画家にも対等に接し、作品に目を通していた。漫画家のみならず各界を代表する文化人との親交もあり、芸能人落語家演劇関係者、テレビ業界人、小説家、現代美術家などに多くの友人がいた。

また最新テクノロジーや、学会で話題を呼んだ学説を漫画に反映する事も多く、『ジャングル大帝』では大陸移動説、『火の鳥』では騎馬民族征服王朝説、『アドルフに告ぐ』ではヒトラーユダヤ人説などを題材にし(大陸移動説はのちに定説となったが、騎馬民族征服王朝説とヒトラーユダヤ人説はその後の研究で否定されている)、寺沢武一は「色々教えてもらったけど、あの忙しさの中でどうやってそんなに最新の情報を取得できるのか、そのアンテナを手に入れる方法だけは学べなかった」と述懐している。

向上心も人一倍で、新人賞の審査を任された際には「本当は審査員ではなく、応募する側になりたい」と言い、晩年、大物と呼ばれるようになっても出版社原稿を持ち込んで逆に出版社に恐縮されることもあったという。

晩年のインタビューで、「めげそうになるたびにね、主流というようなものに敵愾心を抱いてね、コンチクショウと思ってやってきたですね。たとえばね、水木さんの『ゲゲゲの鬼太郎』が受けたとなると、すぐそれを負かそうと『どろろ』を描いてみたりね。(『スコラ』85年5月23日号)」と語ったように競争心・敵愾心は高く、新たな作品を生み出す原動力にもなっていた。

また、良くも悪くも子供っぽいところがあり、松本零士チョコレートが入ったうどんを食わせたと言う逸話がある。(ただし松本零士本人は別の漫画家であるちばてつやパンツに生えたキノコを食べさせるというもっとおちゃめなことをしている。)
さらに、「家のトイレのスリッパの上にティッシュでくるんだカリン糖を置く」といういたずらもしていたことがあり、カリン糖がなくなるとまた新しいのを置いて、飽きるまでやっていたと次女・千以子は語っている。

手塚治虫はアシスタントに給料をあげる際には必ず1000円を渡し「必ず映画を見るんだよ」と微笑むなど面倒見がいい面も多くある。(当時の1000円は映画も見てもお釣りがくるほどの価値であった)虫プロを辞め演劇の世界に身を投じた制作進行は、食えるようになるまで毎月仕送りを貰い、劇団の広告を出してもらい泣いて感謝していた。

朗らかな人柄でファンがサインを求めてきた時にはどんなに忙しくても全力でサインを描くのが日常であった。ファンレターの返信にも熱心で、手塚と手紙のやりとりをした人物は著名人にも多い。

手塚はたとえ極端なデフォルメを施されたキャラクターでも基本的なリアリティにこだわりを持っており、『ジャングル大帝』のアニメ制作の現場でダチョウの足指の数(2本指)を間違えたアニメーターを厳しく叱責したという逸話がある。

彼が小学生の頃、黒板に完璧な円が描け、それはコンパスを使った先生が描いた円より完全な円であった。プロになってからも正確な円や正方形をフリーハンドで描けたという。
同じく、小学生の頃に手塚は写実的な昆虫の絵を得意としたが、戦争の影響で絵の具の赤色が無かった時は自分の血を使い赤色を代用した事がある。

悪書追放運動の際には、漫画を読んだこともないのに漫画を悪書と決めつけ世の中から抹殺しようとする人たちに悩まされていたが、晩年は多くの人から称賛され、手塚作品の「ヒューマニズム」の側面や「平和主義」の側面ばかりが取り上げられるようになり、逆に違和感を表明するようになる。

ちなみに手塚自身は自分がヒューマニストの代表的な見方をされることをことさら嫌っていたことで知られている。
かつて渋谷陽一は手塚にインタビューした際、「俺についてヒューマニズムと言うな、とにかく、俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ」「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」とシリアスな顔で怒られたという。
また、「『正義の味方』や『良い子』的な善のキャラクターよりも悪の魅力を存分に振りまいて暴れまわる悪役キャラクターの方が魅力を感じる」と自著で述べており、ヒューマニズム系の作品として評価されるものの中には、「どうしてこんなものを描いてしまったのか自分でもわからない」などと作者自身が自嘲気味に述べている作品もある。

逸話

  • 戦時中でも漫画を描き、大人に見当たらない掲載場所としてトイレを選ぶが、紙不足の時代であり原稿は尻拭きに使われた


  • 締め切りをとっくに過ぎているのにかかわらず、アシスタントに今週の出来を聞いていまいちと聞いたら、ほぼ完成していた原稿を没にして、8時間で20枚を書き直した。

  • 仕事を引き受けすぎ、ウソをついて締め切りをずらしたり、人目がなくなった隙に逃亡するなどの行為も常習的に行っていた事から、口の悪い編集者からは「おそ虫」「ウソ虫」「雲隠れ才蔵」などと呼ばれていた。

  • ある時などは『ちょっとそこの銭湯に』と言い出して洗面具を持って行くのを編集が見送ったら、実家の宝塚まで600キロの道を逃走していた。

  • 手塚の逃走癖は晩年まで直らず、手塚番になる編集者には、編集長から「常にパスポートと数十万の現金を用意しておけ」と言われたという。時として海外まで逃げることがあったからである。

  • 締切が押し迫った時、周囲の編集者やスタッフに「差し歯がないから描けない」「スリッパがないと描けない」「浅草の柿のタネが食べたい」などと無理難題を言い出して困らせることがよくあり、本当に困っていることもあったが、見張りがいなくなった隙に逃げ出したりして休息を取るのが本当の目的であることが多かった。

  • 九州に逃亡した際に、現地で「火の鳥(ギリシャ・ローマ編)」を執筆したが、資料などは持ってきていなかった。建築や服装などは全て頭の中に記憶されていた。

  • 締切が近く編集が喧嘩しそうになると、数本の連載作品を机に並べ同時進行で一気に仕上げたことがある。

  • アメリカ旅行中ファックスの存在しない時代に、1ミリ方眼紙と電話での口頭指示でコマ割りを仕上げ、口頭で本棚の過去作品から背景指定を行い、帰国してからアメリカで描いたメインキャラを張り付け原稿を完成させた。

  • アニメの打ち合わせで「ここはこういうシーンでいこう」と、対面に座っている人向きの絵(手塚側から見て上下反転の絵)を描き出した。


  • 進行が切迫してネームや下書きすら描けていない時には、原稿に貼り付ける活字だけでも編集者が先に作っておくために、手はペン入れをしながらこれから描く予定のネーム(そのページのコマ割り、セリフ、改行位置や字体など)を口述で指定するという離れ業をやってのけた。描く前から原稿の完成図が頭の中にイメージできており、それを紙に引き写すだけだったという。

最期

手塚治虫は「命をかけてマンガを描く」というのを比喩表現ではなく本当に実践した人間である。
彼は胃癌の最中に病院のベットでも漫画を描きつづけ凄まじい最後を遂げる。

手塚は、担当医の言うことは聞かず描き続けた。
手が動かなくなっても痛み止めのモルヒネを打って描き続けた。
奥さんは「もういいんです」と手塚を静止しようとするが手塚はそれでも漫画を描こうとした。
手塚は骨と皮だけような状態になってもベッドの上で漫画を描くのを止めようとしなかった。

自身が癌とは告げられていなかったが、医師免許を持っていたことと作品や日記の節々に自分が癌だと悟っていた節も有り、その飽く事無き漫画に対する執念がどこから来るのかは最早誰にもわからない。
マネージャーが聞いた彼の最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ…」であった。

関連マンガ家


藤子不二雄
藤子不二雄の二人は手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け漫画家を志した。その時の要素を二人は「絵が動いてる!」と驚いたと語っている。
彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出しその返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と直筆のハガキを受け取った。
これがますます彼らを漫画家に志すことに拍車をかける。藤子不二雄は彼にちなんで初めは「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」名義にした。
その後藤子不二雄としてデビューし手塚の住んでいたトキワ荘で暮らす。たびたび手塚治虫のアシスタントとして手塚の仕事を手伝ったりしていた。藤子・F・不二雄(藤本弘)は生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)も藤本と同様に手塚を尊敬し、自伝漫画『まんが道』では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「」と表現した。
現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響によるもの。
手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」「七色いんこ」では藤子のドラえもんが登場したり、藤子不二雄が漫画家25周年を迎えた際には手塚タッチのドラえもんとドラえもん風のヒョウタンツギを描いた色紙をプレゼントしている。手塚と藤子不二雄は三人でラーメン屋に行ったことも何度もある。(ラーメン店松葉)
また、手塚は藤子不二雄のことを「彼らの作品は21世紀にも残る。素晴らしい作品」と自分の著書で絶賛している。

石ノ森章太郎
石ノ森も手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け漫画家を志したと語る。
中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという。その封筒の中身で手塚は「キミのマンガは他人には描けない物が沢山溢れている。将来有望だ」と絶賛した。
そして石ノ森章太郎は手塚が連載していた雑誌「漫画少年」の投稿欄に毎回投稿するようになる。
そこで手塚の目に止まり、念願がかなって手塚の漫画を手伝うことになった。ちなみに最初に手伝ったのは『鉄腕アトム』の「電光人間」と言う話で、後に手塚は漫画少年に送ってきた石ノ森のことを「天才的な少年の絵」と褒めている。
その後、石ノ森は手塚のアシスタントとして活動した。手塚は回を追うごとに上手くなる石ノ森の絵を見て舌を巻き「鉄腕アトム」を手伝ってもらったと語る。
石ノ森がプロの漫画家になった理由も手塚が編集者に紹介したことによる。
そして石ノ森は、漫画家としてデビューして手塚が住んでいたトキワ荘に住んだ。
手塚は自身の漫画に石ノ森を度々登場させている。
また手塚が亡くなった時に石ノ森は悲しみの気持ちと大ファンだった思いを遺作『グリンゴ』の巻末で語っている。手塚は石ノ森の作品である「仮面ライダー」「ゴレンジャースーパー戦隊シリーズ)」に対して「石森(石ノ森の旧名)氏の作品は素晴らしい。特に仮面ライダーなどは僕や彼が死んでも作品が続くであろう。」と絶賛している。

赤塚不二夫
赤塚不二夫も手塚治虫の漫画「新宝島」に大きな衝撃を受ける。
そして手塚の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意した。
彼が18歳の時は長谷邦夫、石ノ森章太郎と一緒に「墨汁一滴」を描く仲間として手塚の家を訪問した。
赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は『赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい』と助言した。
手塚の助言を受けた赤塚はレコード店に行き店員に『一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください』と言い店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという。
その後赤塚も手塚が住んでいたトキワ荘で暮らした。
手塚は赤塚をたびたび自身の漫画に登場させている。また赤塚はトキワ荘時代に手塚のアシスタントとして手伝ったこともある。
手塚は赤塚の作品に対し、「僕が生まれて始めて涙がでるまで笑い転げた漫画は赤塚クンの作品である」と語っている。

永井豪
永井豪も手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る。
「僕の漫画家人生は手塚先生の作品から始まった。」とも言い、4歳の頃お土産のロストワールドを見た時に「運命が変わった」と語り、以降手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。
またアンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪がブラック・ジャックを描いた時はブラック・ジャックと永井豪自身と学生時代の手塚をいっしょに登場させ、学生時代の手塚にブラック・ジャックが「お前は漫画家より医者に向いている」と発言すると、手塚治虫キャラ全員と永井豪も存在が消えかかった。(手塚治虫が漫画家になっていなかったら永井豪も漫画家になっていなかったという表現)
また、代表作「マジンガーZ」に関し、当時のロボットものの人気作であった横山光輝の「鉄人28号」と「鉄腕アトム」を上げており、これらの作品に入れ込んでおり、この2作に負けないくらいの魅力を持つ新たなロボット漫画を書きたいという強い憧れがマジンガーZの誕生につながったと、「マジンガーZ」ジャンプ掲載版単行本のあとがきで語っている。
意外なことに、手塚のアシスタント経験は無い。しかし、もともと手塚のアシスタントを申し込みに行ったら手塚が出張のため手塚プロにいなくて、かわりに手塚の元アシである石ノ森章太郎を紹介され、石ノ森章太郎のアシスタントになった経緯がある。
手塚は永井を「彼ほど現実離れした凄いアイデアを思いつく漫画家はいない」と褒めている。

松本零士
松本零士も手塚の漫画に衝撃を受け漫画家を志した。
彼が小学二・三年の頃に学級文庫があり、それは手塚が描いた『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。
松本が「漫画少年」の常連だった高校生の頃には手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う。手塚)」の電報を受け取る。松本は最初はイタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタントを求めた電報であった。
そこで松本は緊急アシスタントとして手塚を手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。これは松本がプロ漫画家になる思いを強めたとも言う。
松本がプロの漫画家になり上京してからも手塚とは親交があり、手塚が一人で突然に松本の下宿に行くこともあったという。その時は窓の外から「おーい松本君。メシ食わせるから、出てこーい。」と誘った。松本が手塚と気が合ったのはお互いがあけっぴろげのことだと語る。

さいとう・たかを
さいとう・たかをも手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。
昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅に尋ねた。
しかし、運が悪く手塚は既に東京に上京していたためにさいとうは手塚に合うことはできず手塚の母とニ・三言話しただけで帰ることになった。そのため初期のさいとうの漫画は手塚のような絵柄を描く漫画家であった。
その後、さいとうは「手塚に憧れて漫画家を目指したが手塚調の丸っこいタッチの絵が描けず現在の絵になった」と証言している。
後に「劇画」と呼ばれる分野の開拓に貢献し手塚の最大のライバルとして彼の漫画家生命を大きく揺るがした。
手塚の「ブラックジャック」の『デベソの達』という回にはゴルゴ13が登場する。また手塚とさいとう・たかをとの共作「過去からの声」も存在する。

横山光輝
横山光輝も手塚治虫の『メトロポリス』に感銘を受け漫画家を志す。
しかし、横山は高校卒業後は神戸銀行に入社する。
手塚はある日、大阪東光堂の社長に連れられたスマートな青年と出会う。
社長はその青年は神戸銀行に務めていると言い、社長は「うちでデビューさせようと思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた。手塚は彼の作品を読み「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年は漫画家としてデビューすることになった。
その青年こそが横山光輝である。
横山はその後、手塚と『黄金都市』『ターザンの洞窟』で共作をした。
手塚は横山を「かれほど"彗星のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している。
鉄人28号』は『少年』誌上で手塚の『鉄腕アトム』と人気を二分する大ヒット作となった。
またプライベートでも手塚と横山は付き合いがあったようで横山が東京に来たばかりの頃は手塚がいろいろアドバイスしていた。

荒木飛呂彦
荒木が漫画家としてデビューしたのは手塚が荒木を第20回手塚賞の準入選に選んだことによる。その時の作品は「武装ポーカー」で荒木は20歳であった。手塚は荒木に手塚賞を与える際に絶賛しており「これはすごく面白かった。近代にない。僕は大好き。東京へ是非来て下さい。あんまり東北から出る人って少ないんですよね」と荒木が東京に来ることを薦めた。また荒木はその時、手塚と握手した様子を「1980年の暮れに、手塚治虫先生に握手していただいた時に、うわっ漫画家の手ってすごい柔らかくてフワフワだぁ。と思った。 ぼくはあんまり『柔らかいっスねえ!』って言われた事ないけどきっとジャイロ(荒木の作品の登場人物)の手はフワフワだな。 」と自身の作品「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部「スティール・ボール・ラン」に書いている。

鳥山明
鳥山は幼少の頃より「鉄腕アトム」など見て育ったと語る。
手塚は植田実との雑誌対談で「三十年たって振り返りもされない建築はまずいと思うんです。漫画だって三十年たっても読まれなきゃ本物じゃないと思っているんです。今、描いているものも未来世紀になっても読まれなければ、失敗だと思います。(中略)漫画という常に不定形の文化には存在し得ないものなのか。やはり大当たりする鳥山明のパターンが漫画の姿なのか・・・。鳥山明にはかなわんです(笑)」と発言している。
手塚は他に「鳥山明は純粋でいい。やっと私の後継者が出てきた。」とも「80年代のアトムがどうもウケが良くなかったのは、Dr.スランプという強敵がいたからじゃないかと思っている。最初に読んだとき『やられた!』と思った」など語っている。
鳥山も手塚に付いて発言したことがあり、1998年に集英社からジャンプコミックスで「手塚治虫THE BEST」が発売された時は単行本の帯に一巻ずつ少年ジャンプの漫画家が帯にメッセージを寄せていた。鳥山は「雨ふり小僧」が収録された第二巻に以下のように語っている「一度だけ漫画で涙が出てしまったことがある。若い頃読んだ『雨ふり小僧』。プロとなった今、出会い、今度は汗が出た。」
現在、手塚賞の審査委員は鳥山が務めている。

水木しげる
水木しげるはデビュー当時、漫画は手塚治虫のような作風の漫画しか売れず、「私は(手塚治虫を)ライバルだと思ってやってきた。若い時から漫画界に君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった」「手塚さんがコンクリート塗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきたようなものだ」と自著『水木さんの幸福論』で語っている。
また水木は手塚のことを名指ししたわけではないが、「水木サン(水木の一人称)はいつでも自分がオモチロイと思ったものだけを描くんです。誰かにウケるものを描こうなんて考えたこともない。そんなことを考えて描く人は三流ですよ」と語っている。不遇時代に描かれた水木の漫画『怪獣ラバン』は、ゴジラをはじめ、武内つなよしや手塚の『鉄腕アトム(ミドロが沼の巻)』の模倣・模写が見られるが、水木としては「流行を真似したマンガを描かなければならなかった」ということで、かなり鬱屈した思いを持っていたようである。ちなみに水木は、手塚をモデルにした「アゴ塚」なる漫画家が、同業者に罠にはめられて死ぬというという内容の「おゝミステイク」という作品を描いたことがあり、また、手塚の競争心と仕事中毒ぶりを棺桶職人に投影して揶揄した『一番病』という作品も描いている。
なお、手塚治虫の息子の眞は大の水木ファン、水木しげるの長女の尚子は大の手塚ファンであり、水木の次女の悦子は「姉が手塚さんのマンガをかなり読んでいたことを水木は気にしていたようです」と話している。また水木の娘が水木に対して「お父ちゃんの漫画には未来がない。手塚漫画には未来がある」と言うと。水木は「これが現実なんだ!おれは現実を描いているんだ!」と激怒したという。水木の娘が手塚からサインを貰った時は『お父ちゃんの雑なサインと違って、丁寧に描いてくれた!』と言い、水木をガッカリさせている。 一方の手塚眞も「わたしが水木さんのマンガを読んでいるのを父はかなり気にしていたようです」と語っており、手塚・水木の家族からは、おたがいをライバルとして意識していたという証言は多い。『どろろ』は水木の『墓場の鬼太郎』(のち『ゲゲゲの鬼太郎』に改題)に触発され、妖怪を手塚が取り込もうとした試みであった(ただし、手塚は水木が漫画家になる前から妖怪探偵団など妖怪漫画を描いている)。
しかし二人はプライベートでは必ずしも仲が悪かったというわけでもなく、後年には親交を深め、手塚眞の映画『妖怪天国』に二人仲良く出演したり、一緒にテレビ出演するなどしていた。また地方へ仲良く温泉旅行に行ったこともある。
ちなみに水木は自分のエッセイ漫画で「手塚・石ノ森師弟は睡眠時間を削ってまで仕事したから早死にしたのかなあ」と哀しげな顔を浮かべる自画像を描いている(水木氏は超多忙な時期でも7〜8時間、それ以外の時期は10時間は寝ていたという)。

やなせたかし
水木と同じく手塚からは「年上の後輩」(9歳年上)であるやなせたかしは、アニメ映画作品『千夜一夜物語』や『やさしいライオン』を一緒に制作することで自らを引き上げてくれた「大恩人」として年下の手塚を尊敬しており、「人生の師匠」だとたびたび語っていた。大人向け作家だったやなせが子供向けの作品を作るようになったのは手塚治虫のせいとまで語っている。また、手塚の仕事ぶりについて、「本当に超人なんでね。アニメーションと漫画を両方描くのは、結局ぼくにはできなかった。手塚さんといい、石ノ森さんといい、あんなに寝ないで仕事すれば死にますよ。」と水木と同じような事を話していた(やなせ氏も昼寝が日課で、自分と水木しげるが年下の手塚・石ノ森が死んだあとも遥かに長生きしたのは睡眠を大事にしたからだ、と語っている)。

その他、「宇宙戦艦ヤマト」で第一次アニメブームを作った西崎義展も「機動戦士ガンダム」で第二次アニメブームを作った「富野由悠季」も虫プロ時代の手塚治虫の社員である。手塚が直々に面接した。
富野氏はアニメ鉄腕アトム海のトリトンリボンの騎士巨人の星対鉄腕アトムどろろワンサくんなど多くの手塚作品のアニメの脚本・絵コンテ・演出に携わった。手塚と何度も対談もしている。

手塚治虫が「マンガの神様」と呼ばれる理由の一つにこの、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二雄、横山光輝、松本零士、西崎義展、富野由悠季、をアシスタントや部下として使ったことがある。

また批評眼にも優れていたらしく、前述のように
・21世紀になっても藤子不二雄の漫画が残ると予想→21世紀にメディアミックスがされたもので言えば「ドラえもん」、「怪物くん」など
・自分や(原作者である)石ノ森章太郎が死んでも「秘密戦隊ゴレンジャー」「仮面ライダー」が続くと予想→スーパー戦隊シリーズ、平成ライダー
・鳥山明の作品は30年後も読まれていると予想→「ドラゴンボール」など
などなど、「彼の作品は残る」と言われた漫画家は大抵実際に後世まで作品が残っている。

誤解

手塚治虫の話題にはネット上では誤解も非常に多い。

愛弟子の一人には石ノ森章太郎がある。石ノ森がデビューする前は手塚の原稿を手伝うアシスタントとしても活躍していた。 石ノ森章太郎の作品『ジュン』を手塚が酷評したという『ジュン事件』から、手塚と石ノ森は不仲だったと紹介されることもある。ただこれは、かつて石ノ森が手塚の経営する虫プロ商事の雑誌『COM』にジュンを連載していたが、ジュン読者からの「手塚治虫からジュンなんてマンガじゃないという悪口を書いた手紙が送られてきた」という手紙にショックを受け、COM編集部にジュンの連載中止を申し出るも、のちに手塚が石ノ森の自宅まで「申し訳ないことをした」と謝罪に来たことで両者の関係は修復されたというエピソードであり、実際に手塚と石ノ森の仲はわりと良く手塚の漫画には度々石ノ森が登場する。そもそもこの作品は盗作疑惑が持ち上がっていたことが議論の原因。(石ノ森本人もジュンが盗作であることも認めている)

大友克洋と対面したときには「あなたが描くような程度の低い絵は僕にも描けるんです」と発言し、実際に大友タッチの繊細な絵を描き上げたという有名な都市伝説が存在する。本当はこれは大友克洋が手塚治虫のファンだったことに由来するファンサービスである。(「お前が描くような程度の低い絵は僕にも描けるんです」など言ってない。大友に絵をプレゼントしたことで交流を深めたのが面白おかしく脚色された。)

大友克洋は代表作の「AKIRA」を手塚治虫に捧ぐとAKIRAの最終巻に描いている。その他に大友克洋は後に手塚治虫のアニメ映画の脚本を手がけている。(原作:手塚治虫、脚本:大友克洋 メトロポリス)。
事実、手塚は大友のことを雑誌「ユリイカ」にて画力を絶賛している。
大友克洋が描いた鉄腕アトムも存在する。


また梶原一騎とも仲が悪いことにされることが多く、実際作風も人柄も水と油ほどに違うのでそう思われるのも無理はないが、実際には合作もあり親交があった。手塚治虫と梶原一騎の合作『巨人の星対鉄腕アトム』は必見。梶原原作の『あしたのジョー』は虫プロでアニメ化されている。

こちらも参照→:http://matome.naver.jp/odai/2140822722724510701
(手塚治虫が褒めたことのある漫画家一覧)

アニメーション作家として

手塚はディズニー狂いを自称するほどディズニーに傾倒しており、アニメ作りにも人一倍強い情熱を燃やしていた。1961年、アニメスタジオとして虫プロダクション(通称「虫プロ」)を設立。

『鉄腕アトム』が日本初の30分テレビアニメとして制作される際、手塚は制作費を格安に設定し、関連商品の著作権収入で資本を回収するというビジネスモデルを選んだ。制作費を破格に安くしたのはテレビアニメを普及させやすいのと、他の企業と差を付けるためだったと語る。

当初は毎週の30分アニメの制作は無謀なものと言われたが、止め絵やバンクの多用による作画枚数の節約を演出の妙で克服し、『鉄腕アトム』は見事成功。日本でもテレビアニメが成り立つことを初めて示した。一方でこれはスタッフの過酷な重労働と、手塚が漫画によって蓄えた資金によって初めて実現したものであり、常に破綻の危機をはらんだものであった。

しかし、鉄腕アトムは4年間放送が続き、他のテレビ局も30分アニメを作るようになる。アトムは海外で40ヶ国で放送されるなど大ヒットし、玩具と海外からのロイヤリティーだけでも制作できるようになった。手塚も「アニメ鉄腕アトムは後半は黒字」と語っている。(前半は大赤字であった)。

こうして手塚が虫プロで創出した(初期の)製作手法は、アニメーターに過重な負担をかけるかわりに大量のアニメ制作を実現するものとして確立していった。

そのため、しばしば現代のアニメーターが給料が低いのは手塚のせいと批判されることが多いが、杉井ギサブローは東映アニメーション(東映動画)や海外受注を積極的に行った第一動画などもその過失があることを強く批判している。
さらに手塚自身、アニメーターを軽んじていたわけでは決してなく、虫プロはむしろアニメーターを絶対的に尊重し、作家性を重んじる社風であったと、富野由悠季らが証言している。

また手塚の存命中からアニメーターの給料が安いのは手塚のせいと雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している
「しかしね、ぼく個人我慢ならんのはね、こういう声があるんだよ。手塚があのアトムを売る時、べらぼうな安値できめてしまったから、現在までテレビアニメは制作費が安くて苦労するんだと。冗談じゃないよ。」「あの時点での制作費はあれが常識なんで、あの倍もふっかけようもんなら、まちがってもスポンサーはアトムを買わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代なんて夢物語だったろうね。」「たしか四十何万が制作費で、ぼくの持ち出しは二十万くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組はあたるということで、それから半年ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作費は、なんと百万ですよ!つまりそれだけ出してもモトがとれてお釣りがくると企業は踏んだんだ。それから先はご覧の通りですよ。現在制作費は五百万円が下限で、六、七百万円ぐらいはスポンサーが出しますよ」

杉井ギサブローは他に、手塚治虫が低予算のリミテッドアニメの手法を日本アニメ向けに確立させなかったら日本は間違いなく世界一のアニメ大国になっていなかったであろうとも語っている。

作品

手塚作品を参照。

手塚スターシステムのキャラクター

ヒゲオヤジ ヒョウタンツギ
アセチレン・ランプ ケン一 スカンク草井 ハム・エッグ 丸首ブーン レッド公 ロック・ホーム


関連イラスト

趣味の話
神様


 

火の鳥を捕まえろ!!!!


虫ミク
切り絵 手塚治虫



関連タグ

漫画家 アニメーター 映画監督 医者
トキワ荘 虫プロ
赤塚不二夫 藤子・F・不二雄 石ノ森章太郎 永井豪
手塚スターシステム
島本和彦:本名・手塚秀彦。つまり「もう一人の手塚先生」であり、「手塚治虫先生への遠慮もあるし、自身の作品も「手塚作品」と呼ばれないよう配慮してペンネームを使用している」と語っている。

外部リンク

TezukaOsamu.net - 公式
手塚治虫 - Wikipedia
手塚治虫の作品一覧 - Wikipedia
手塚治虫とは - はてなキーワード
手塚治虫とは (テヅカオサムとは) - ニコニコ大百科
Osamu Tezuka

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