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藤子不二雄

ふじこふじお

藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐによる富山県出身の二人の漫画家コンビ。1954年結成、1987年解散。
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藤子不二雄は、藤子・F・不二雄(藤本弘)と藤子不二雄A(安孫子素雄)による富山県出身の二人の漫画家コンビ。1954年結成、1987年解散。

学生時代

2人は小学校以来の友人で、互いに漫画の腕を競いアドバイスを送り合う仲間だった。高校時代に合作を始め、1951年に『毎日小学生新聞』に投稿した『天使の玉ちゃん』でデビュー。

また休暇を利用して大ファンであった手塚治虫の家を2人で訪ね、手塚の仕事場や生原稿を目の当たりにして大きな感銘を受け、漫画家への夢を大きくする。(こうした経験のため、キャリア初期には合作ペンネームとして「手塚治虫の足下にも及ばない」の意味で足塚不二雄と名乗っていた時期もあった。)
一方の手塚治虫も、このとき2人が持参した漫画に目を通し「なかなか上手だね」とありきたりな返事をしたものの、内心では「とんでもない子達が現れた」とその才能を見抜いていたという。

高校卒業後、2人は別々に就職したが、藤本は3日で退社し漫画に専念。一方の安孫子は親戚の経営する新聞社で仕事をしながら藤本との合作を続けていたが、1954年に藤本が安孫子を誘い上京した。安孫子はサラリーマン生活に未練があったというが、悩んだ末に藤本とともに夢の道に進むことを選んだ。

上京・デビュー

上京した2人は程なくして、東京都豊島区の若手気鋭漫画家が集うアパートトキワ荘」の手塚治虫の住んでいた部屋に、手塚と入れ替わりで入居した。このとき、前述のエピソードもあって2人を買っていた手塚は、金のない2人のために敷金を肩代わりし、作画用の机などの家具を部屋に残しておいたという。原稿料は2人の作業量にかかわらず常に均等に分けることにしており、これはコンビ解散まで変わらなかった。

1961年にトキワ荘を出た後、『オバケのQ太郎』が大ヒット。以後、どんどん仕事が増えていくがあまりの忙しさに2人が十分に相談し合作する時間が取れなくなり、藤子不二雄のペンネームはそのままで藤本と安孫子がそれぞれ独自の作品を執筆するというスタイルが中心となった。

ただし、「ドラえもん誕生秘話」で主人公像も考えないまま新連載予告を出してしまった2人が喫茶店で相談しながら頭を抱えるシーンがあるように、コンビとして作品に対する相談は後年まで行っていた。また小池さん神成さんゴンスケなどのキャラクターは藤本・安孫子の両作品で共有されており、藤本の『ドラえもん』に安孫子の怪物くん、安孫子の『忍者ハットリくん』に藤本のパーマンなど、互いのキャラクターのカメオ出演も行われている。

解散とその後

1987年、コンビ解散を発表。以後、藤子・F・不二雄藤子不二雄Aにペンネームを分け、仕事場も隣同士のビルに分割された。

解散の理由は、公式には「2人の作風の変化」が語られている。藤本が後年まで児童漫画SFを主戦場としていたのに対し、安孫子は次第に青年漫画ブラックユーモアにシフトし、同一の作者の作品として語るにはファンのイメージを損ねかねない、というものである。

他に、体調を崩し気味であった藤本の健康問題や、報酬は常に均等に分けることにしていたが実質的には藤本の方が仕事が多く売れっ子だったため、どちらかの死後必ず発生するであろう資産の分与問題に未然に備えた、等々様々な憶測が飛んでいる。

実際、作品の著作権に関しては解散後もあれこれ問題があり、合作時代の代表作である『オバQ』などは2人それぞれの過去作品が文庫化や全集化されていく中でどちらにも収録されず、入手が困難になった時期があった。現在では話し合いが進み、合作時代の作品もかなり入手しやすい形で復刻されている。

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