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野茂英雄の編集履歴

2017-09-29 22:15:48 バージョン

野茂英雄

のもひでお

野茂英雄とは、日本・アメリカで活躍した元プロ野球選手。投手。右投右打。

概要

1968年8月31日 大阪府出身。やや遅咲きの選手で、高校も野球の強豪校ではない公立学校の大阪府立成城工業高等学校だったが、ここで才能が開き甲子園出場こそしなかったもののエースとして府大会で好成績を出すようになる。高校卒業後社会人野球を経由してプロ入りした。

1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得。(その時の代表は全員アマチュアで潮崎哲也野村謙二郎古田敦也笘篠賢治ら13人がプロ入り、應武篤良が社会人を経て早稲田大学野球部監督に就く。)


おそらく、プロ野球史上、5本の指に入るほど偉大なピッチャー


1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団(阪神タイガースロッテオリオンズヤクルトスワローズ横浜大洋ホエールズ福岡ダイエーホークス日本ハムファイターズオリックス・ブレーブス近鉄バファローズ)から指名を受け、最終的に近鉄が交渉権を獲得し、近鉄に入団。


ルーキーイヤーである1990年には、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占し、ベストナイン・新人王・沢村賞・MVPにも輝いた。


だが、4年後の1994年の契約更改の際、当時の近鉄監督鈴木啓示ら球団上層部との年俸や彼独特な投球フォーム(トルネイド投法)に関するイザコザがあり、彼自ら「任意引退」という形で近鉄を去った。


翌年の1995年ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだが、メジャー契約を勝ち取りメジャー登板も果たした。

2005年以降頃は怪我等も響き、結果も思わしくなくなっていく。

2008年にロイヤルズに移籍、一度はメジャー復帰するもののその後も不調で戦力外通告を受ける。日本の球団で交渉をしようとする向きもあったものの、同年5月11月に「プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せない」として引退を表明した。

その後は臨時コーチや野球解説者として活動している。


また、現役時代の2003年に大阪府堺市を本拠地に、社会人野球『NOMOベースボールクラブ』創部。

2013年に本拠地を兵庫県豊岡市へ移転、現在に至る。


その後の遍歴↓

ロサンゼルス・ドジャース(1995 - 1998)

ニューヨーク・メッツ(1998)

ミルウォーキー・ブルワーズ(1999)

デトロイト・タイガース(2000)

ボストン・レッドソックス(2001)

ロサンゼルス・ドジャース(2002 - 2004)

タンパベイ・デビルレイズ(2005)

シカゴ・ホワイトソックス(2006)

カラカス・ライオンズ(2007)

カンザスシティ・ロイヤルズ(2008)


ドジャース、レッドソックス時代には、ノーヒットノーランも達成している。


因みによく間違えられるが、日本人初のメジャーリーガーは野茂ではなく村上正則である。


プレースタイル

大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法「トルネード投法」が彼の武器であり、代名詞でもある。

「どれだけ速い球を投げられるか」ということを小さい頃から考えて投げ続けた結果、高校の頃には原型となるフォームが出来上がっており、高校時代の監督は「つむじ風投法」と呼んでいた。

平均150km/h台の球威あるストレートと、社会人時代にモノにしたフォークを武器に真っ向から三振を獲りにいくパワーピッチャーであったが、2000年代に入ってからはカーブ・ツーシーム・カットボールも投げていた。引退後オリックスの臨時コーチに就いた時にはサイドスローからフォークを落としてみせるなど、イメージとは異なる器用な一面を持つ。


関連タグ

新日鐵住金:前身の、新日本製鐵堺(勤務先は子会社の新日鐵化学)に所属、ドラフト指名後、新日鐵のCMに出演。

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