ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

織田信勝の編集履歴

2011-07-17 04:23:48 バージョン

織田信勝

おだのぶかつ

織田信勝とは、戦国時代の武将(1536?~1557) 一般には信行の名で知られる。その他にも逹成、信成などと名乗っていた記録が残っている。

概要

尾張の大名織田信秀の三男として生まれる。生年については不明な点が多い。

奇行の多かった同母兄織田信長とは対照的に、品行方正で家中の信望は高かったという。そのため、実母の土田御前にもかわいがられていた。

父の死後は織田家の当主が代々名乗っていた弾上忠の位を信長を差し置いて名乗るようになり、兄に対抗するようになった。

二人の性格の違いは事件を起こした叔父信次に対する対処で明確になる。


ある日信次が狩りをしていた際、その横を騎乗のまま通り過ぎようとした若武者がいた。家臣の一人がこれを無礼として威嚇の射撃を行ったが、誤って射殺してしまう。その若武者というのは実は信長、信勝の同母弟織田秀孝であり、それに気づき驚愕した信次は出奔してしまう。

これに激怒した信勝は信次の城下を焼き払うが、信長は無防備だった秀孝に非があるとした。

この事件で一族の繋がりを重視した信勝の方に家中の期待が集まるようになる。


家督を継ぐ機会を窺っていた信勝は、信長の支援者だった斎藤道三が死んだのを契機に遂に林秀貞林通具柴田勝家らと謀反を起こす。しかし通具が戦死し、勝家も敗れたため降伏し、土田御前の取りなしで許される。

その後再度謀反を計画する。しかしこの時勝家は既に信長に通じていた。勝家からの通報で計画を知った信長は病と称し、見舞いにきた信勝を河尻秀隆、もしくは池田恒興に殺させた。

享年21歳?

子は許され、津田信澄と改名して信長に仕えた。信澄も後に悲劇的な死を迎えるが、その血筋は旗本として明治まで残った。


フィクションでの信勝

兄弟で家督を争うこと自体はよくある話だが、彼の場合は兄があまりにも有名になってしまったため、利口だが兄を理解できない見かけだけの小物として描かれることが多い。もしくは昔は兄と仲が良く、彼の裏切りと死が信長を非情にしたきっかけとして扱われる場合もある。

pixiv上のイラストとして多い戦国大戦では前者として描かれ、やや神経質なショタキャラになっている。

稀に彼自身も優れた人物であり、兄の器を理解した上で挑んだとされることもある。ただ今川義元などと違って若くして死に、再評価の材料になるような功績もないため、彼の扱いは今後もそう変わらないと思われる。

関連タグ

戦国大戦 織田信長 土田御前 柴田勝家 織田信行

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました