※本馬をモデルとするウマ娘については、マルゼンスキー(ウマ娘)の記事を参照。
※現役時代の馬齢は旧表記で記載。
生涯
誕生からデビューまで
1974年5月19日生まれ。父はイギリスの三冠馬ニジンスキー。
外国で受胎し、日本で生まれた馬は「持込馬」と呼ばれ、1970年代当時は外国産馬と同じ扱いで、旧八大競走の中では、有馬記念だけしか出られなかった。
なお、持込馬がクラシックなどに参戦できるようになったのは1984年のことである。
競走馬時代
3歳(1976年)
1976年の7月にデビュー。騎手は引退まで一貫して中野渡清一が務めた。
3歳王者を決める朝日杯3歳ステークスでは、2着に13馬身も突き放しての圧勝だった。
4歳(1977年)
出るレースすべてに連勝を重ねたマルゼンスキー。
折りしもこの頃はスーパーカーブームであり、中野渡が「スーパーカーのような乗り心地だ。」と言ったことからマルゼンスキーには「スーパーカー」の異名が付いた。
しかし、当時の規定により、日本ダービーに出られなかった。
この時に中野渡はこう言った。
28頭立て(※)の大外枠でもいい。
賞金もいらない。
他の馬の邪魔もしない。
だからマルゼンスキーを出させてくれ。
そうすれば、どの馬が一番強いのかが分かる。
※当時のフルゲートは28頭。
この年に日本ダービーを優勝したのは、ラッキールーラだった。
日本短波賞では、後の菊花賞馬プレストウコウに7馬身差を付けての圧勝。
クラシックへの出走は叶わなかったが、世代最強は間違いなくマルゼンスキーと認知され、上の世代との対決にも注目が集まった。
1歳上の世代は、トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラスの三強「TTG」であった。
上記の通り、マルゼンスキーにとっては八大競走の中では有馬記念しか出られなかった。
人気投票ではTTGに次ぐ4位だったが、この頃には屈腱炎を発症していたため、引退を余儀なくされた。
種牡馬時代
イギリス三冠馬ニジンスキーを父に持つ血統からマルゼンスキーは種牡馬となり、1982年には、ホリスキーが菊花賞を優勝し、種牡馬としてGⅠ級競走初勝利を挙げた。
1988年にはサクラチヨノオーが日本ダービーを優勝し、自身の無念を晴らす。
こうした競走成績と種牡馬成績が評価され、1990年に顕彰馬に選ばれた。
また、ブルードメアサイアーとしても、ライスシャワー、ウイニングチケット、スペシャルウィークを輩出している。
1997年8月21日に心臓麻痺により23歳(旧24歳)で死去した。
主な産駒
GⅠ級勝利馬
※1983年以前は旧八大競走のみ。
ホリスキー('82菊花賞)
スズカコバン('85宝塚記念)
サクラチヨノオー('87朝日杯、'88東京優駿)
レオダーバン('91菊花賞)
母の父として
関連動画
関連タグ
ミドリマキバオー:母の父として登場。ただし名前は「マルゼニスキー」となっている。