ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

マルゼンスキーの編集履歴

2019-05-19 12:00:32 バージョン

マルゼンスキー

まるぜんすきー

マルゼンスキーは、日本の競走馬。 デビューから一度も負けたことがなく、「スーパーカー」と呼ばれた名馬だったが、当時の規定でクラシック競走への参加は叶わなかった。 1990年に顕彰馬に選ばれた。(1974~1997)

※本馬をモデルとするウマ娘については、マルゼンスキー(ウマ娘)の記事を参照。

※現役時代の馬齢は旧表記で記載。


生涯

誕生からデビューまで

1974年5月19日生まれ。父はイギリス三冠馬ニジンスキー


外国で受胎し、日本で生まれた馬は「持込馬」と呼ばれ、1970年代当時は外国産馬と同じ扱いで、旧八大競走の中では、有馬記念だけしか出られなかった。

なお、持込馬がクラシックなどに参戦できるようになったのは1984年のことである。


競走馬時代

3歳(1976年)

1976年の7月にデビュー。騎手は引退まで一貫して中野渡清一が務めた。


3歳王者を決める朝日杯3歳ステークスでは、2着に13馬身も突き放しての圧勝だった。


4歳(1977年)

出るレースすべてに連勝を重ねたマルゼンスキー。

折りしもこの頃はスーパーカーブームであり、中野渡が「スーパーカーのような乗り心地だ。」と言ったことからマルゼンスキーには「スーパーカー」の異名が付いた。


しかし、当時の規定により、日本ダービーに出られなかった。

この時に中野渡はこう言った。


28頭立て(※)の大外枠でもいい。

賞金もいらない。

他の馬の邪魔もしない。

だからマルゼンスキーを出させてくれ。

そうすれば、どの馬が一番強いのかが分かる。

※当時のフルゲートは28頭。


この年に日本ダービーを優勝したのは、ラッキールーラだった。


日本短波賞では、後の菊花賞馬プレストウコウに7馬身差を付けての圧勝。


クラシックへの出走は叶わなかったが、世代最強は間違いなくマルゼンスキーと認知され、上の世代との対決にも注目が集まった。


1歳上の世代は、トウショウボーイテンポイントグリーングラスの三強TTGであった。

上記の通り、マルゼンスキーにとっては八大競走の中では有馬記念しか出られなかった。

人気投票ではTTGに次ぐ4位だったが、この頃には屈腱炎を発症していたため、引退を余儀なくされた。


種牡馬時代

イギリス三冠馬ニジンスキーを父に持つ血統からマルゼンスキーは種牡馬となり、1982年には、ホリスキーが菊花賞を優勝し、種牡馬としてGⅠ級競走初勝利を挙げた。

1988年にはサクラチヨノオー日本ダービーを優勝し、自身の無念を晴らす。

こうした競走成績と種牡馬成績が評価され、1990年顕彰馬に選ばれた。

また、ブルードメアサイアーとしても、ライスシャワーウイニングチケットスペシャルウィークを輩出している。


1997年8月21日に心臓麻痺により23歳(旧24歳)で死去した。


主な産駒

GⅠ級勝利馬

※1983年以前は旧八大競走のみ。


ホリスキー('82菊花賞)

スズカコバン('85宝塚記念)

サクラチヨノオー('87朝日杯、'88東京優駿)

レオダーバン('91菊花賞)


母の父として


ライスシャワー

スエヒロジョウオー

ウイニングチケット

メジロブライト

スペシャルウィーク

プリモディーネ

メジロベイリー


関連動画


関連タグ

競走馬 顕彰馬


ミドリマキバオー:母の父として登場。ただし名前は「マルゼニスキー」となっている。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました