※現役時代の馬齢は2000年までの旧表記で記載。
生涯
父はナリタブライアンと同じくブライアンズタイム。母はサニースイフト。母の父はスイフトスワロー。母の全兄(伯父)は第54回日本ダービー(1987年)で2着に入ったサニースワロー。
騎手は全10戦一貫して大西直宏が務めた。
1996年(3歳)
しかし、2戦目の百日草特別は5着。初の重賞である府中3歳ステークス(GⅢ。現・GⅡ東京スポーツ杯2歳ステークス)は7着。ひいらぎ賞も5着で、この年は4戦1勝の成績に終わった。
1997年(4歳)
1月6日の若竹賞は2着だったが、中1週で挑んだジュニアカップを勝利して2勝目。
弥生賞(GⅡ)は3着に終わり、中2週の若葉ステークスも1番人気に推されながら4着に敗れた。なお、おの若葉ステークスが生涯唯一の1番人気だった。
第57回皐月賞
ここまで8戦2勝、主な勝鞍がジュニアカップということもあり、サニーブライアンは11番人気のノーマークだった。1番人気はメジロライアンの仔で翌年に春の天皇賞を勝ったメジロブライトだった。
大外18番からスタートしたサニーブライアンは第2コーナーまで2番手に付けると第3コーナーから先頭に立ち、前走の若葉ステークスでサニーブライアンに勝ったシルクライトニングの追撃をクビ差で凌いで1着でゴールイン。
鞍上の大西にとってもこれが初のGⅠ勝利だった。
1着のサニーブライアンが11番人気、2着のシルクライトニングが10番人気、そして3着には12番人気のフジヤマビザンが入り(メジロブライトは4着)、当時はまだ3連単や3連複がまだなかったにも関わらず、単勝は5180円、馬連は51790円という大波乱のレースとなった。
第64回日本ダービー
晴れてGⅠ馬となったサニーブライアンだったが、世間からはフロック(まぐれ)だと思われており、日本ダービーでの単勝は6番人気だった。(1番人気は再びメジロブライト)
皐月賞馬がダービーでここまで不人気なのは異例なことだが、これに対して大西はこう言った。
「1番人気はいらない。1着が欲しい。」
そして始まったレース。
後に伝説の逃げ馬となるサイレンススズカも出場していたが、大西が事前に「サイレンススズカがいようと関係ない。何が来ようと逃げる!」と宣言して牽制していたため、スズカ陣営は逃げ馬同士での潰しあいを避けて控える作戦に出た。
結果、サニーブライアンはスタートから1度も先頭を譲らず逃げ続け、13番手から追い込んで来たシルクジャスティスに1馬身差を付けて1着でゴールイン。
フジテレビで実況した三宅正治は「これはもう!フロックでも何でもない!二冠達成!!」と叫んだ。
その後
ダービー後の勝利者インタビューにて三冠目となる菊花賞への意気込みを見せ、距離が伸びる菊花賞でも同じように逃げるかと訊かれ「逃げます」と即答した。
しかし、日本ダービーの最中に故障していたことが判明。菊花賞には出られず三冠の夢は潰えた。
年が明けた1998年に復帰し、アメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)に出る予定だったが、今度は調教中に屈腱炎を発症してしまう。
結局復帰の目処が立たずそのまま引退し種牡馬となった。
種牡馬としては初年度産駒のカゼニフカレテが愛知杯(GⅢ)を勝ち、2年目のグランリーオが中日新聞杯(GⅢ)を勝ったが、GⅠ勝利馬は出なかった。産駒の勝鞍は2つとも中京競馬場の重賞だった。
2007年に種牡馬を引退してからはセン馬となり北海道の浦河町で余生を送っていたが、2011年3月3日に疝痛のため17歳で死去した。
2006年に騎手を引退した大西は、ブログで思いを綴っている。→ありがとう、サニーブライアン
「20世紀の名馬100」は第28位にランクインした。
その他
世間からほとんど相手にされていない状態で二冠を取り、注目が集まったところでそのまま引退する形になってしまったため、結局どの程度強い馬だったのかよく分からない面もある。
しかしサニーブライアンが日本ダービーで下した馬たちはその後大活躍しており、2着のシルクジャスティスは年末の有馬記念を勝利し、3着のメジロブライトは上記の通り翌年(1998年)の天皇賞(春)を勝った。
さらに7着には菊花賞を勝ったマチカネフクキタルがおり、そして9着には覚醒する前のサイレンススズカがいた。
これらの馬達を相手に二冠を獲ったことで、「サニーブライアンはやっぱり強かったのではないか」という声も挙がっている。
関連タグ
カツトップエース:1981年の二冠馬で、低人気を覆して皐月賞と日本ダービーを勝ち、故障のためダービーを最後に引退したという経歴が酷似していることから、サニーブライアンは「カツトップエースの再来」と呼ばれた。