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八九式中戦車の編集履歴

2022-05-19 14:16:41 バージョン

八九式中戦車

はちきゅうしきせんしゃ

大日本帝国陸軍の中戦車であり、日本初の国産制式戦車でもある。

概要

開発前史

日本初の自主開発戦車となった、試製一号戦車で培ったノウハウを元に、日本は10トン以内の「軽戦車」と20t以内の「重戦車」を開発・研究を開始する。


ただしこれらの重量による区分は徐々に、曖昧なものとなっていったようで、本記事で解説する八九式中戦車は設計時の全備重量は11t以内とする計画となっており、この段階ですでにこれまでの軽戦車の基準を超えていた。


試製一号戦車から[|九七式中戦車]]までの開発責任者だった原乙未生氏は、後に敗戦間もない頃に、GHQからの聞き取り調査の中で「南方の地形を考慮かつ、輸送船の補助クレーンでも簡単に積み下ろしができるように12tに納まるように作れ」と上層部から指示を受けたと回想している。


(ただし、この回想は書籍媒体ごとに微妙に異なっているため、信用しすぎるのは禁物である)。


開発に当たってはイギリスのビッカーズ社が輸出用戦車として1926年に開発したビッカーズMk.C中戦車を輸入して参考にした。このためMk.Cと八九式中戦車の間には走行装置の構造や車体形状などに顕著な類似が見られる。


開発

本兵器は1928年(昭和3年)3月から開発され、1929年(昭和4年/皇紀2589年)10月に八九式軽戦車として仮制式化された。

改良に伴う重量増により最終的に1934年(昭和9年)に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。

帝国陸軍初の国産正式戦車であることから、イロハの「イ」を取って「イ号」とも呼ばれる。


後期生産車の乙型はディーゼルエンジンが搭載され、ポーランド7TPとともに世界初のディーゼルエンジン搭載戦車となった。


実戦

初陣の満州事変以降、中国大陸に於ける戦いでは攻撃力不足が問題となるような深刻な脅威にぶつかることはなかった。むしろ中国大陸に於ける本車への最大の不満はその低い機動力であった。これは、大陸におけるほとんどの戦いが「追撃戦」の様相を呈していたからである。この反省が機動力を重視した九五式軽戦車の開発に繋がった。しかし、後のノモンハン事件太平洋戦争大東亜戦争)では対戦車戦闘能力の欠如が問題となった。(また車体に余裕がほとんどなく九七式のように砲換装や固定砲塔の自走砲に改造さえできなかった。)

だが当時の日本の工業力では、航空機及び艦船を生産するだけでも手一杯だったことから新型戦車を生産する余裕が無く、結果として老兵と化した本車がフィリピン戦線で終戦まで使われ、死と隣り合わせの戦いを強いられることとなったのである。


関連イラスト

この胸に飛び込んで来て。上海海軍特別陸戦隊

関連タグ

大日本帝国

ガールズ&パンツァーアヒルさんチームが使用。)

艦隊これくしょん大発動艇(八九式中戦車&陸戦隊)」という、揚陸作戦用のカスタマイズで実装)

「大発動艇(八九式中戦車&アヒルさんチーム)」

※混ぜ合わせた結果


外部リンク

Wikipedia

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