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牧野富太郎の編集履歴

2022-09-20 21:30:11 バージョン

牧野富太郎

まきのとみたろう

日本の植物分類学の父。命名した植物は2500種以上、発見した植物は600種以上とされる。

概要

明治期から昭和戦後の長きにわたって活躍した植物学者野草から栽培植物まであらゆる植物を研究した、当代の植物学の第一人者であり、新種や新品種など2500種類以上の植物を命名したことから「日本の植物分類学の父」と呼ばれる。


絵もよくし、著書の多くは自ら図版を手がけた。彼の手がけた「牧野日本植物図鑑」は没後も改訂を重ねて山野草や園芸愛好家らに親しまれている。


略歴

幕末の1862年、土佐国佐川村(現高知県佐川町)で裕福な造り酒屋に生まれた。小学校は既に知っていたことばかりでつまらなかったので2年で中退し、好きな植物採集に打ち込む日々を送る。17歳で西洋の植物学を知り、日本中の植物を記載した植物図鑑を作る夢を抱いて19歳で上京。22歳で東京帝国大学の矢田部良吉教授を訪ね、研究に没頭する生活を送る。


1887年に友人と「植物学雑誌」を創刊、その翌年、かねてからの夢であった「日本植物志図篇」の刊行を始める。自費出版で、絵は自分で描いた。1890年のムジナモの発見で世界の植物学界に名を知られることになる。しかし同年、牧野の不遜な態度を快く思わなかった矢田部良吉教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、帰郷を余儀なくされる。「日本植物志図篇」の刊行も中断してしまった。


その後、牧野の学識を惜しむ友人らの助力で東京に戻り、東京帝大助手となる。植物学研究に実家の財産を費やしたこともあり困窮し、講師となったのは1912年、牧野50歳の時だった。1939年、77歳の時まで東京帝大に勤務していた。その翌年、研究の集大成として「牧野日本植物図鑑」の刊行を始める。


1957年(昭和32年)、94歳で死去。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された。


没後

2023年度前期の連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルとなることが決定している。演じるのは神木隆之介


人物

小学校中退の学歴でありながら理学博士の学位を持っていた。学歴がなかったのは、牧野が植物への学識のみに価値を認め、他のあらゆる権威を認めなかったためである。植物に関しては牧野が日本で一番詳しかったから、牧野は自身が日本一偉いと思っていた。この不遜な態度は様々な軋轢を生じ、日本の植物分類学の第一人者であったにもかかわらず東京帝大では最後まで教授になれなかった。


生涯を通じて最も打ち込んだのは植物学であるが、鉱物、音楽にも深い造詣を持っていた。当時は珍しかった西洋音楽を郷里に持ち込み、楽団を率いていた時期もあった。


雑草という名の草はない」は元は牧野の言葉である。昭和天皇が牧野の言を引用したことから昭和天皇の言葉として知られるようになった。

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