ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

竹中半兵衛の編集履歴

2012-08-31 01:26:49 バージョン

竹中半兵衛

たけなかはんべえ

戦国時代の武将。斎藤家・織田家に仕え、羽柴秀吉の参謀として活躍したことが有名。

史実

  • 生:天文十三年
  • 没:天正七年六月十三日。

竹中重治(たけなか しげはる)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。「竹中半兵衛」の通称で有名。美濃菩提山城城主として斎藤義龍に仕え織田信長美濃進攻を食い止める働きを見せた。永禄六年、織田家と争った新加納の戦いでは指揮に於いて目覚ましい働きを見せたとされる。

戦国時代を代表する軍師として知られ豊臣秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高とともに二兵衛(或いは両兵衛)と並び称されたが、実際に史料を見てみると竹中重治が自らでもって指揮なり作戦立案なりで武功を立てたという記述は存外と少ない。が、重治の場合はそれを補って余る二つの武功がある。


一つは斉藤義龍死後、永禄七年(西暦1564年)二月、義龍に代わって美濃を継いだ美濃国主、斉藤龍興に突如、謀反の旗を翻し(理由については諸説有り)、僅か十六名(十七名とも)の手勢で稲葉山城(後の岐阜城)を占拠した事である。

織田信長はこの動きに対し竹中重治を美濃半国の知行で自身の幕下に入るよう招聘を掛けるが重治は是を固辞、稲葉山城を元の持ち主である斉藤龍興に返却し自身は浪人となって近江湖北浅井家の家臣、樋口直房の元に身を寄せた。是が戦国史上、類を見ない下克上事件、稲葉山城乗っ取り事件である。

その後、重治は樋口家からの職も辞して早々と旧領に隠棲するも、姉川の役を前後して豊臣秀吉の誘いで織田家の家臣となり、浅井家への縁故を通じて調略や秀吉の城番として政務に力を発揮した。


さて、もう一つの右に出ることがない武功というのは、年が下って天正六年(西暦1578年)、羽柴秀吉播磨攻略戦の最中、突如として離反した荒木村重の説得に有岡城へと赴いた小寺孝高が音信不通となり、孝高主家の小寺政職も織田家から離反したことより小寺孝高の逆心必定と織田信長は判断し、孝高から預かっていた人質の松寿丸(後の黒田長政)殺害を秀吉に命じるが重治は孝高の離反あるまじき事と判断し、偽首を秀吉に献上させて織田家を欺いたのである。

果たして重治のこの判断は的中し、小寺孝高は織田家への忠義を貫き一年もの間、有岡城にて軟禁されて落城時には足腰の衰えから自力による歩行が困難で後も脚に障害が残る程であったが、逆にその硬骨さを評価されて小寺孝高黒田孝高へと名を変えると献策に指揮にと、鬼のような辣腕振りを発揮するのである。主家を欺いてまで黒田孝高の才能を見抜き彼を救命した慧眼は見事の一言に尽きる。

が、この孝高を織田家へと繋ぎ止めた(孝高の子に男子は長政しか居なかった)判断に対して有岡城の落城から小寺孝高が救出されたのは天正七年(西暦1578年)十月十九日以降であり、重治は自身を侵す肺の病が寿命を蝕んだと悟り、療養先の京都から播磨三木城の陣中まで出向き天正七年六月十三日に没していた。享年三十六歳。

黒田孝高は如何にしてこの恩に報いればいいのかと涙を流し、重治の子である竹中重門の庶子が福岡藩黒田家の重臣として招聘されている(重門長政長政が重治の自領に匿われていた時に面識を持つ幼馴染みである)。


その容貌、婦人の如し」と記録にあるように、体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。

ただし、個人的武勇が劣っていたかといえばそういうわけではなく、剣術も皆伝レベルの腕前だったとか。


戦国無双シリーズ

俺、天才

一見、あどけない少年だが天才的な采配センスを持つ。

CV:庄司宇芽香

詳しくは→竹中半兵衛(戦国無双)


戦国BASARAシリーズ

豊臣秀吉の親友で、豊臣軍の最高軍師。

CV:石田彰

詳しくは→竹中半兵衛(戦国BASARA)


織田信奈の野望

竹中半兵衛

「今孔明」と呼ばれる程の兵法家であり陰陽師でもある。病弱で人見知りの少女。

CV:小倉唯

詳しくは→竹中半兵衛(織田信奈の野望)


関連タグ

戦国BASARA 豊臣秀吉 前田慶次

豊臣軍 友垣 秀吉親援コンビ 二兵衛 州・д・)人ζ・×・ζ


戦国大戦

「1560尾張の風雲児」では斎藤家時代の武将として参戦。レアリティはSS(戦国数寄)。

「1570魔王上洛す」では織田家武将として参戦。レアリティは最上位のSR。

他にもPixivコンテストから採用されたイラストのSS、EXキャンペーンで配布予定のEXと合計4種類存在する。


「今孔明」と称された逸話から、三国志大戦諸葛亮を彷彿とさせる計略を使用する。

味方の数に応じて臨機応変に戦うことができるのは諸葛亮と同じだが、計略を使うたびに自分の兵力を失うという、元祖にはない特徴がある。早逝した史実を反映したためと考えられる。


織田家では織田信長を凌ぐ最高の統率力11を誇り、大筒の維持などで活躍できるが、武力が低いうえに計略で兵力を失いやすいため過信はできない。


他の記事言語

Takenaka Hanbei

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました