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宗田理の編集履歴

2024-05-10 22:43:27 バージョン

宗田理

そうだおさむ

宗田理は、日本の小説家。

概要

(1928年〈昭和3年〉5月8日 - 2024年〈令和6年〉4月8日)。


東京府豊多摩郡(現東京都世田谷区)生まれ、愛知県幡豆郡一色町(現西尾市)出身。愛知県名古屋市東区在住。日本大学藝術学部映画学科卒。


戦後間もなく友人と出したガリ版による同人誌にて漠蕪愚(ばくぶぐ)名義で『涅槃』という最初の作品を書く。


日本大学藝術学部映画学科に入学し、実習の創作としてシナリオを書く。その時に書いた『雲の果て』(1991年に刊行された『雲の涯』の基となる)という作品が、講師として来ていた松竹映画専属のシナリオライター八木沢武孝の目に留まり、日本大学藝術学部・江古田文学会が発行する『江古田文学』に掲載するよう推薦。

紆余曲折あったが、映画学科からは宗田の作品だけが何とか掲載された。

その後、八木沢の依頼で助手を務めたり、森脇将光の出版事業「森脇文庫」の編集業に加わる。

この頃、柴田錬三郎水上勉高木彬光松本清張などの作家と出会い、取材や資料集めなどで協力する。

森脇が森脇文庫を突然やめると、宗田は数人と共に企業のPR会社を興し、主に自動車会社のPR誌などを作るようになる

すると自動車に詳しくなり、作家の梶山季之や清水一行に資料の提供や取材などで協力もした。


1970年後半にカズノコが高騰し、その原因を調べるうちに水産業界の裏の実態を知り、これを元に『未知海域』を発表。この作品が情報小説として高く評価され、1979年に直木賞候補となり、これをきっかけに小説家として活動開始。


1985年、のちに代表作となる『ぼくらの七日間戦争』を発表。この作品、本来は団塊の世代、特に学生運動に興じていた者たち(特に全共闘勢力に与していた者たち)の熱い手のひら返しと、そうした事をノスタルジーに組み入れて「美しい青春の思い出」にしてしまった無責任ぶりに対する痛烈な皮肉と批判をブチ込んだ「大人向けの社会風刺小説」だったのだが、その内容が「理不尽に強権を奮う大人たちを相手に子どもたちが友情の旗のもと団結して立ち向かう」というものであったため、当時の子どもたち(バブル世代から団塊ジュニア世代にかけて)にウケにウケまくり、1988年に映画化。以降、続編が継続執筆されてぼくらシリーズとして児童文学の定番作品となり、以降の世代の子どもたちのバイブルとなり、2001年までに累計発行部数が1500万部を数える作品となった。


ちなみに「七日間戦争」からシリーズがなし崩しに続き作数を重ねるようになった当初、宗田には「子どもたちを相手に書いている」自覚が無かったため(続編の初版稿も、よく読めば子どもに読ますにはドぎつい毒まみれの描写が、それなりに多い。まぁ肝心の子どもには全く解らないのだが大人になって読み返すとソレに気付いて作品やシリーズの印象がガラッと変わってしまう人もいる)子どもからファンレターが来る事に戸惑っており逆に子どもに自作を読ませている親に「何考えてんだ」と頭を悩ませていたとか。

だが、子どもたちからのファンレターによって、彼らの生きる苦しみや辛さを知り、あまつさえ、そのために人との信頼を忘れかけているような子どもたちに接した事で、あらためて「この子たちのために書こう。この子たちが友情を信じ人を信じ世界を信じられるようになるために、人として大事な事を伝えたい。それを失いかけている子どもたちのために『ぼくらの仲間たち』の冒険を書き続けよう」と決意したという。


『ぼくらの七日間戦争』、『ぼくらの秘島探検隊(ぼくらの七日間戦争2)』、『仮面学園殺人事件』、『ほたるの星』は映画化されている。


2024年4月8日午後6時26分に名古屋市の病院で死去。95歳没。


関連タグ

小説家 「ぼくら」シリーズ

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