ローマ帝国
注意 ローマ人自体はこの国家の事を帝国だとは思っていないが、
演説などの冒頭の挨拶にも使われた標語、言葉、 例『元老院とローマの市民の諸君・・
元老院を諮問機関として『元首』が直接国家統治(簡潔に言うと完全独裁)したローマ共和国
- 古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。
- 従って、「ローマ帝国」の歴史には、古代ローマが帝政に移行する以前の共和制時代を含んでいる(ローマ帝国最盛期の領土の多くは共和制時代に得たもの)。
- 最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。
- シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。
帝国という訳語があてられている事から
紀元前27年からの古代ローマを指す場合もあるがこの場合は厳密には
帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。
アウグストゥスの尊称を得て実質的な帝政を開始したときより
395年に最終的な東西分裂が確定するまでか
476年に西ローマ帝国が滅亡するまでを指す。
広義においては共和政ローマが地中海広域において覇権を握った時期
(紀元前2世紀頃以降)から東西分裂後の東部領域を継承した
1453年にオスマン帝国に首都コンスタンティノポリス(イスタンブール)を落とされ滅亡するまでとされる。
国の名称
英語のEmpire や、その訳語である日本語の「帝国」は、「皇帝の支配する国」という印象が強いためにしばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが本来は必ずしも皇帝の存在を前提とした言葉ではない。
- 古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのはイタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。
- 紀元前27年よりローマ帝国は共和政から元首政(帝政)へと移行する。
- ただし初代(元首)皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。
- 44代皇帝ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
- 313年に46・50代皇帝コンスタンティヌス1世(聖帝)が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷した。
- 58・60代皇帝テオドシウス1世(大皇帝)は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。395年、東ローマ(ビザンツ帝国)と西ローマに分裂。その後ローマが統合されることは無かった。
- 西ローマ帝国は経済的、軍事的基盤が弱く、76代ロムルス・アウグストォスル帝を最後にゲルマン人の侵入に抗せず476年に滅亡。以後オドケアル率いるゴート族がゴート王国を立てる。
- 6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降は領土を大きく減らし国家体制の変化が進行した。
- 8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落しローマ帝国とローマ文明は完全に滅亡した。
(元首)統治政治(帝政)システムの確立
- ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:ティベレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。
- 共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。
- 都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍でイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。
- 紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
- 前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。
- 紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。
- これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
- 以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。
- 彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に元首に指名した。
- 元首(皇帝)は代々次のような称号と権力を有した。
1(本来の)執政官権限・2.執政官を任命する権限・3.執政官に命令する権限
- ※ローマ執政官=定員二人、任期一年交代、 首相と軍司令官を兼ねているような職、ローマ帝国の首相相当
- 「執政官命令権」を持っており最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。
なので、元首政以降は執政官+『元首』の3人体制になった。『3』は重要な数字になった。
『聖人』として扱われ『守衛』に守られる権利を保有.
- 「護民官職権」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。
- これには身体の不可侵権(『聖人』として扱われ『守衛』に守られる)権利に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
初代元首-アウグストゥスの元首就任と
ユリウス・クラウディウス家の世襲で始まったローマ元首政治だが、
2代元首ティベリウス元首の死後あたりから、
政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。
軍事面では共和制末期からの自作農の没落の結果徴兵制が破綻した
代わって傭兵制が取られたがそれは領土の拡大とあいまってローマ内部に
親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促しそれは取りも直さず即物的な力を持った
潜在的な政治集団の発生に繋がった。
無軌道な元首が登場すると彼らは対立候補を挙げて決起しまた複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生した。
3名のローマ元首が軍隊によって殺害され2名が自殺に追い込まれ不自然な形での
元首の交代が頻発するようになる。
この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。
時代が進むにつれてはじめは俸給や市民権の獲得を目的に、
後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。
時系列的にはローマ元首となったカエサル家の子弟はある者は善政を行いある者は暴政を行いその多くが暗殺や反乱によって非業の死を遂げた。
(アウグストゥス・クラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、周辺属州民にとっても善政だったかについては疑問がある)
五賢帝の時代
こうした曲折を経つつも、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の元首の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。
のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、
彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。
この時期には実質的に国家の最高指導者として機能していたとも言える。
この時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、
領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが
地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。
また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち自由農民がローマ伝統の重税を避けて
逃げ込むケースが増え自給自足的な共同体が増加した時期でもある。
98年 - 117年 13代皇帝トラヤヌス
「至高の皇帝」。最大領土を現出。東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。
117年 - 138年 14代皇帝ハドリアヌス
全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。「慈悲深い皇帝」
元首アントニウス家
138年 - 161年 15代皇帝アントニヌス・ピウス
財政の健全化に努めた。
161年 - 180年 16代皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス
「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。
- 五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。
117代皇帝コンモドォスは父とは思えぬほど無能で虐政を敷き、斬殺された・・。
アントニウス家断絶
元首セウェルス家
コンモドゥス亡き後、ローマ元首の地位を狙って側近・元老議員・将軍達による簒奪が発生し
ローマの政治は混乱した。
その混乱の元になった存在を全て打ち破ったのは、カルタゴ出身のローマ軍団の司令官の一人セプティミウス・セウェルスだった。
セウェルスは黒人である。
アントニヌス勅令
212年、セウェルス家出身の21代元首カラカラの
「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に同等の市民権が与えられた。
これによって厳しい階級社会だったローマ社会における非ローマ市民の著しい不平等は多少なりとも緩和された。
(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)
各軍団長によるローマニア政治支配合戦
いわゆる「元首政」の欠点は元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。
そのため地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると
相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。
カラカラ暗殺後セウェルス家はいったん地位を奪われマクリヌスが元首となるもカラカラの落胤とされる王子エラガバルス派がマクリヌス陣営を打ち破り、
ふたたびセウェルス家に権力が戻る、
しかしエラガバルスは史上稀にみる堕落した王者であり、彼が統治した4年間は
全くローマの為にはなるようなことはなかった。
当然のごとくエラガバルスは斬殺され、かれの義理の弟が後継のローマ元首になる。
しかし部下の将軍フィリップス・アラブス(アラブ人)の陰謀により、
彼率いる軍団に一族郎党皆殺しにされる。
フィリプス・アラブス元首以降、約50年間に26人が皇帝位に就いた
この時代は軍人皇帝時代と称される。
パクス・ロマーナ(ローマの平和)により戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、
代わりにコロヌス身分がが急激に増加した。
(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う身分、通称農奴)
この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると人々の移動が減り商業が衰退し、地方の離心が促進された。
284年に最後の軍人皇帝となった44代皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。
つまり終身大統領のような存在であるローマ元首を据えたキメの粗い緩やかな支配から
オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主を据える体制にしたのである。中華の皇帝体制に近くなった
絶対元首政ローマニア
これ以降の元首単独政治を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して
「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。
ローマニア分割統治
テトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の皇帝(アウグストゥス)と元首(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の皇帝に就いた。
強大な複数の外敵に面した結果、元首以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが
軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。
テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。
ローマニア帝都遷都
50代皇帝コンスタンティヌス1世大帝はローマ元首の『皇帝化』確立につとめる一方、
東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため330年に交易ルートの要衝
ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)
に遷都しコンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。
コンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化
特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった
ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して再び単独の絶対元首となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は
313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。
後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(392年)。
394年にウェスタの聖なる炎も消されたこの火はローマ神話では神聖なものだった。
395年、60代皇帝テオドシウス1世(大帝)は死に際して帝国を東西に分け
長男アルカディウス(61代皇帝)に東を
次男ホノリウス(62代皇帝)に西を与えて分治させた。
当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、
何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが
これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなかった
3世紀後半以降、東西が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり。
経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり自由農民が温存された。
東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど東西の分裂は早い段階から進行していた。
今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。
史料などからは当時の意識としては別の国家となったわけではなく
あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。
ディオクレティアヌス以降、元首の所在地としてのローマ帝都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。
- 西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れずイタリア半島の維持さえおぼつかなくなった。
その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したが
東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし
15世紀まで続いた。
中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが完全なキリスト教国であり
また徐々にギリシア的性格を強めていった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止めまたいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。
西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。
東ローマによる帝国の再建は何度か試みられた。5世紀に東ローマ主導でアフリカのヴァンダル族を攻撃したが壊滅。
6世紀の70代皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)によるものは一定の成果を収め、
地中海の広範な地帯が再びローマ帝国領となった。
9~10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。
帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。
その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり13世紀に十字軍により首都を占領され、
1453年にオスマン帝国に滅ぼされた。
ローマ帝国という名称を名乗る国家としては神聖ローマ帝国が
1806年の帝国解散の詔勅による滅亡まで存続している。
しかしこの国は既にこの当時はドイツ民族による大小の国家連合体となって長い時間が経過しており
帝国解散の詔勅自体が「ドイツ帝国」の名で出されている上
旧東西ローマ帝国の滅亡時に正統な後継国家として認証されている訳ではない
自称ローマといえる。
また東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために
古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり古代以来の統治機構が
イスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから
ヘレニズムとローマ法正教会(オーソドクス)を基盤とした新たな「神の国ローマ文明」とも呼べる段階に移行した。
同時代の西欧からも「ギリシア人の帝国」と見なされ、
後世からも「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」等と呼ばれる場合が多い。
単に「ローマ帝国の滅亡」と言ったときには476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのが一般的である
制度上の最後の西ローマ皇帝ユリウス・ネポスが殺害された480年と考えることもできる。
東ローマ帝国は分裂以前のローマ帝国から断絶なく連続している政体であり
宮廷や住民も、あくまで自らをローマ帝国・ローマ人と自認していた
西ローマ帝国の滅亡後もカール大帝の戴冠までは西欧からもローマ帝国とみなされていたし
イスラム帝国や東ローマを最終的に滅ぼしたオスマン帝国もこの国を
「ローマ帝国」(ルーム)と認識していた。
西ローマ帝国滅亡後のゲルマン系諸王国の多くは消滅した西の皇帝に替わって
東帝国のローマ元首の宗主権を仰ぎ東帝国のローマ元首に任命された官僚の資格で統治を行った。
フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、
カールが教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで
ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した。
ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、
1806年まで継続した。
東ローマ帝国を征服し滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルタン)である
メフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い
「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。
- ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
その他に(ロシアン・ツァーリ帝国)はローマ帝国の後継者を称し、君主はロシア皇帝を自称するも当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。
国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。
- 現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが
ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味である。
そのルーマニア国歌「目覚めよ、ルーマニア人!」とイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれトラヤヌスとスキピオの名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。