概要
若竹型駆逐艦の5番艦。 1922年3月14日起工、1922年11月4日進水。
進水時の名称は第十駆逐艦と呼ばれていたが、1928年8月1日に朝顔と艦名変更された。この経緯は、若竹、呉竹、早苗、早蕨、夕顔、芙蓉、刈萱と同じである。
その後、駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦。船団護衛に従事した。1944年7月9日海南島三亜海岸で台風のため座礁よ余儀なくされたものの、同年9月25日に離礁、10月15日より護衛活動再開された。1945年に、呉鎮部隊呉防備戦隊に編入したが、航路の途絶、および燃料の不足により、以後は外洋に出ることはなかった。呉在住のまま終戦を迎えた。しかし、同年8月22日に、舞鶴港に回航途中、関門海峡六連島灯台沖で触雷し大破して浸水着底。
このように、大正年間製造の旧式艦ながら、太平洋戦争中は計98回の護衛活動に従事し、終戦時まで生き残った。これは若竹型で唯一である。
1945年11月30日除籍。
1947年から1948年にかけて,日本サルヴェージにより浮揚解体された。