曖昧さ回避
- 1879年から1884年にかけての南アメリカにおけるボリビア・ペルーとチリとの戦争。 →太平洋戦争(南米)
- 1941年から1945年にかけてのアジアと太平洋における日本と米英など連合国との戦争。この記事で解説。
名称
第二次世界大戦での大日本帝国と米・英・蘭・豪・中などの連合国との戦争。 日本では12月8日の対米戦開戦後の同12日に東條英機内閣の閣議決定で、日中戦争を含める形で「大東亜戦争」と定めた(大東亜戦争は現代では「アジア・太平洋戦争」とも呼ばれる)。
「太平洋戦争」は連合国側の名称として使われていたPacific Warに倣ったものであるが、 日本でも開戦前(仮想戦記などで)や開戦直後には対米戦の呼称として「太平洋戦争」が使用されており、戦後になって初めて登場した名称というわけではない。
経過
前夜
世界恐慌によって経済が疲弊した日本では議会政治が行き詰まり軍部が台頭。関東軍が1931年(昭和6年)に満州で満州事変を起こし満州国を建国した。これを機に日本と中華民国は対立を深め、中国大陸への権益拡大を目論んでいたアメリカにも対日警戒心を呼び起こした。1937年(昭和12年)には戦闘は中国本土にも飛び火し、日中は宣戦布告なき戦闘状態に陥った(日華事変)。
ヨーロッパでは、ヒトラー率いるナチスドイツが1939年(昭和14年)にポーランドへ侵攻し、英仏の対独宣戦布告で第二次大戦が勃発。翌年には日独伊による枢軸同盟が締結された。この同盟は日本を完全に枢軸側に押しやり、米英を敵に回すことになった。
開戦
欧米の対中支援「援蒋ルート」を断ち、またさらなる資源獲得を目的に日本は仏領インドシナ北部(北部仏印)への進駐を実施した。これまで中立外交を貫いたルーズベルトのアメリカも満州や太平洋の権益の障害になると察知し、対日石油輸出制限を発動。またチャーチルのイギリスもアメリカの介入を望んで1941年(昭和16年)に大西洋憲章を掲げた。
アメリカは日本に中国撤退を迫ったが、「満蒙は日本の生命線」として大陸進出に固執した日本はこれを一切受け入れず日米交渉は難航。また、日本の主な石油輸入元であったオランダ領東インド(蘭印)との交渉(蘭印会商)も、本国が占領された蘭印の足下を見た日本側の恫喝的な態度によって蘭印側の反発を呼び、オランダに同情的な連合国側に日本の悪印象を大いに広めることになる。
7月、日本は仏領インドシナ南部(南部仏印)への武力進駐を決定する。蘭印を攻略するために飛行場と港湾を確保するのが狙いであった。これを受け、日本の東南アジア征服の企てが確定的となったと判断したアメリカは対日石油輸出禁止を決定し、さらに在米日本資産を凍結。英国もこれに同調した(日本ではこれを米英中蘭による対日経済制裁「ABCD包囲網」と呼んだ)。この様な強硬な制裁措置は、米国側が「日本は米国とは戦争は出来ない。強力な経済制裁により日本を屈服させるしかない」と信じていたからであったが、日本の政策当局者は英米の強硬な反応に茫然自失となり、「石油禁輸を断行されれば、国家の生存のためいかなる手段を講じても南方油田を確保するよりほかない」と考え、対米開戦への道は決定的となった。
日米交渉を続けていた近衛文麿は内閣を辞職し、東條英機内閣が発足して交渉を引継いだが、11月1日の連絡会議で同月中に米国が提案を呑まねば開戦することが決定、20日には最終提案となる乙案が米国に提示されたが、米側は22日にいわゆるハル・ノートによって提案を拒絶、日本は開戦を決意した。
1941年(昭和16年)12月8日、旧日本軍はハワイ海戦(真珠湾攻撃)とマレー侵攻を皮切りに米英と開戦。主に太平洋と東南アジアで戦闘が始まった。
旧日本軍の攻勢
初戦は日本優勢で、旧日本軍は英国支配下の香港・シンガポール・ビルマ・マレーシアや米国支配下のフィリピン、オランダ植民地のインドネシアなどを次々と占領。日本はアジアの欧米による植民地解放と独立を名目とした「大東亜共栄圏」を掲げ、占領地には軍政を敷くか現地親日派政権を打ち立てた。しかし、これにより戦線はアジア太平洋一帯に広がってしまい、艦隊決戦に特化した旧海軍に、広大な占領地を保持するための海上護衛戦の能力は残されていなかった。
連合国軍の反攻
緒戦の大勝利に浮かれきった連合艦隊は1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で米国に予想外の大敗北を喫し、多くの空母と戦闘機、熟練搭乗員を失った。これを境に戦局は変化。アッツ島守備隊の玉砕、ガダルカナル・サイパン・第三次ソロモン海戦など、伸び切った戦線各地で連合軍に押され、孤立した離島の守備隊が各個撃破されて玉砕して行く悲劇が繰り返されることになる。
1944年(昭和19年)、旧陸軍が実施したインド攻略を目指したインパール作戦は2万人以上の死者を出し大失敗に終わった。また同年旧海軍もマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦で一方的な敗戦を喫し、連合艦隊の主力は事実上壊滅。マリアナ・パラオ諸島が米軍の手に落ち、日本本土は空襲脅威にさらされることとなる。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサー元帥率いる連合軍は、レイテ島に上陸。富永恭次中将率いる第4航空軍の航空攻撃と多号作戦による増援に苦しめられたが、12月7日、旧日本軍の守りの薄いオルモックに上陸作戦を決行して、同月末までにレイテ島を攻略した。日本軍はこのレイテ島の戦いにおいて始めて神風特攻隊を出撃させた。
マッカーサーは次いでルソン島に上陸して来たが、司令官・山下奉文大将はマニラを放棄し山中に引き込んで長期持久する戦術を取った。しかし、冨永と岩淵三次海軍少将はマニラ死守を強硬に主張し、この結果マニラ市内に約70万人の市民を残したまま太平洋戦争最大規模の市街戦(マニラの戦い)が展開されることになる。2月末に岩淵少将が自決し戦闘が終わるまでに「東洋の真珠」とも呼ばれたマニラ市は壊滅、巻き込まれた市民に10万人もの犠牲者を出した。山下の戦術によって米軍は終戦までルソン島に足止めとなったが、食料もまともにない山中で戦った旧日本軍は飢餓や疫病で多くの兵士を失い、またゲリラとして戦ったり戦闘に巻き込まれたりしたフィリピン人の犠牲はさらに大きかった。
敗戦へ
1945年(昭和20年)に入ると、いよいよ日本本土に連合国軍上陸を許す事態となった。2月には
硫黄島の戦いで両軍で多大な戦死者を出し、4月には沖縄に旧米軍が上陸、沖縄戦が開始された。旧日本軍は牛島満中将率いる現地の第32軍が徹底した遅滞戦術を取る中、陸海軍が連携して特攻機を大量に投入し、米軍は司令官・サイモン・ボリバー・バックナー中将が戦死するなど、約8万人以上の死傷者を出して第2次世界大戦中最大級の損害を被った。しかし、日本側も巻き込まれた沖縄県民の犠牲が大きく軍民約20万人の犠牲を被った。
そして、1945年3月10日の東京大空襲で東京が焼け野原になり、続いて本土の多くの都市が本土空襲で破壊される。日本近海には飢餓作戦で機雷が投下され、内航海運は麻痺状態になって行った。この時既に連合艦隊は壊滅しており、旧海軍は活躍場所がなくなった戦艦大和を沖縄に特攻させ撃沈に追込んだ。旧陸海軍は本土決戦体制を整え一億玉砕が叫ばれた。当時中国大陸・満州には約200万人の兵力がおり、仏印や蘭印、太平洋の島々など南方には100万人の兵力があったが、シーレーンを失った日本はそれを本土に移送させることはままならなくなっていた。そのため日本本土では「根こそぎ動員」と呼ばれる現役兵から国民兵役に至るまでの大量召集と部隊新設が進められた。
そんな中、スウェーデン駐在武官を務めていた小野寺信旧陸軍少将はスウェーデンやバチカンなどの中立国を介して和平の努力を行っていたが、5月14日の最高戦争指導会議で旧ソ連仲介による講和を狙う対ソ工作が正式に決まり、和平工作は中止された。旧ソ連は2月4日のヤルタ会談で対日参戦を密約しており対ソ工作の実現可能性はゼロであったが、対ソ工作派にとって都合が悪い情報は無視されていた。
米国側から見ると本土空襲や沖縄戦の日本の降伏意思に対する効果は不明確であり、東京占領は不可避と見た米軍は日本本土上陸作戦ダウンフォール作戦(滅亡という意味)を計画したが、ハリー・S・トルーマン大統領は「もう沖縄の様な損害はゴメンだ」と、天皇制継続を実質容認したポツダム宣言を出して日本に降伏を迫った。同時に多額の費用を掛けて完成させた原子爆弾を、戦後の共産圏への牽制目的で使用することも計画し、日本がポツダム宣言を拒否したら日本の都市に投下する準備も行っていた。
日本国内では昭和天皇の意を汲んで即時終戦を主張する派と、日本本土決戦で米軍に大損害を与えた上でソ連の仲介で講和を狙うという「一撃講和」派が対立しており、結論が纏まらなかったため、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言に対し黙殺(ノーコメントの意)を表明した。それを拒否と取った米国は8月6日に広島市、8月9日に長崎市に史上初の原爆を投下し。同日にはスターリンのソ連も日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦し満州に侵攻を開始した。
降伏
旧ソ連参戦により、旧ソ連の仲介による講和の望みが断たれたことから一撃講和派は力を失い、鈴木首相はポツダム宣言の受諾を決定し、8月14日に御前会議で昭和天皇の終戦大詔が下った。8月15日に玉音放送で国民に降伏が伝えられ、対米英戦闘は終了したが、旧ソ連は領土的野心を抱いていた樺太・千島列島への侵攻を続け軍民への虐殺・破壊行為を展開していたため、21 - 25日頃まで激しい戦闘が続いた。
最終的には、9月2日に戦艦ミズーリ号甲板で降伏文書が調印された。
戦争被害
日本
戦死者…約230万人 ※満州事変からのいわゆる15年戦争における死亡者・行方不明者の合計
民間人死者…約80万人 ※15年間の戦争に関連した死者(病死・事故死も含む)行方不明者と戦後の外地からの引き揚げでの犠牲者合計
焼失家屋…230万戸(約1000万人が被災)
沈没商船(100総トン以上)…2568隻(保有船腹の88%を喪失)
喪失した文化遺産…名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城・首里城など城郭を始め国宝級文化遺産多数が消失
太平洋戦争では上記の通り日本商船の88%が沈没しているが、旧海軍艦喪失率も似た様なもので、終戦時に日本で作戦行動可能な大型艦は長門・鳳翔・葛城・酒匂の4隻のみ(駆逐艦や潜水艦、小型艦艇、特務艦艇も含めるともう少し生き残っている)、後は全て沈没するか大破した状態であった。また、残存艦艇も動かせる重油がなく浮き砲台化しており、主要な航路は機雷で塞がれて通れない状態となっていた。
米国
戦死者…156,283人
戦傷者…171,898人
民間人死傷者…数千人※真珠湾攻撃時のハワイの住民、風船爆弾による死傷者、フィリピンやアッツ島やウエーク島などに居住していた米国系住民被害
中国
戦死者…最低130 - 最大400万人 死傷者最大1,000万人
民間人死者…最大2,200万人
英国
死傷者…227,131人※捕虜で死亡したものも含む
オーストラリア
戦死者…32,642人
戦傷者…149,489人
民間人死亡…800人
フィリピン
戦死者…数十万人
民間人死亡…100万人以上
旧ソ連
戦死者…19,594人
戦傷者…40,377名
※ノモンハン事件 - 太平洋戦争末期の対日参戦までの合計
東南アジア諸国
数千万人の人的被害※戦闘に巻き込まれたものや戦争に起因する飢餓や疫病による犠牲者も含む
戦後
日本は米国を中心とするGHQによる占領統治を受け、台湾や朝鮮などの海外領土及び連合軍の定めた島嶼(沖縄、樺太等)が分離される。日本政府及び皇室は存続し昭和天皇の在位も認められたが、東京裁判で戦犯とされた東條を始めと首脳陣が死刑判決を受けた。戦後改革によって財閥解体や農地解放など経済体制も一新され、日本国憲法が発布され、日本は戦後復興へと突き進んでいく。
アジア各国は独立して帝国主義と植民地の時代は終焉。ソ連を中心とする東側陣営と米国を中心とする西側陣営の冷戦の時代へと移り、日本はサンフランシスコ平和条約(1952年発効)の下に主権を回復して西側陣営に加わった。
この未曾有の戦争により、戦傷や本土空襲での死傷、家族の戦死やそれらによる心の傷、原爆の放射線障害に苦しめられることになった人々を多く生み、またソ連による樺太・千島の占領によりふるさとを追われた人も多数発生するなど、戦後日本にも大きな爪痕を残した。