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概要編集

日本の第124代天皇

  • 生没年:明治34年(1901年)4月29日 - 昭和64年(1989年)1月7日
  • 在位:昭和元年(1926年)12月25日 - 64年(1989年)1月7日

大日本帝国憲法下で即位された最後の天皇であり、旧日本軍の大元帥。戦後、日本国憲法下では初の象徴天皇として在位された。


基本情報編集

御名(諱)裕仁
代数第124代・在位:昭和元年(1926年) - 64年(1989年)
称号迪宮
誕生明治34年(1901年)4月29日
崩御昭和64年(1989年)1月7日
践祚昭和元年(1926年)12月25日
即位礼昭和3年(1928年)11月10日
大嘗祭昭和3年(1928年)11月14・15日
大喪礼平成元年(1989年)1月31日
出身東京府東京市麹町区宮城(現・東京都千代田区千代田)
宮殿宮城明治宮殿→皇居宮殿
父親大正天皇
母親貞明皇后
皇后香淳皇后良子女王
皇子皇女東久邇成子照宮成子内親王)・久宮祐子内親王鷹司和子孝宮和子内親王)・池田厚子順宮厚子内親王)・明仁常陸宮正仁親王・島津貴子清宮貴子内親王


生涯編集

明治・大正編集

明治34年(1901年4月29日明治天皇皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の第1皇子として御生誕。

5月5日に親王命名式が行われ、名を「裕仁(ひろひと)」、称号を「迪宮(みちのみや)」と名付けられた。名と称号は尚書の「乃似民寧」と「允厥徳」に由来し、寛容で徳が篤い天皇となって欲しい願いが込められている。


幼少時は学習院に通い、院長・乃木希典の教育を受けた。大正元年(1912年)に立太子と共に皇太子妃選定が進められ、大正7年(1918年)に久邇宮邦彦王の娘・良子(香淳皇后)が内定した。

大正10年(1921年)に欧州を歴訪。英国国王・ジョージ5世より立憲君主制を学ぶ。その後、第一次世界大戦戦場跡を視察され、戦争の惨さを目にされた。帰国後に20歳となられ、病床にある父の公務を代行するべく摂政に就任。

大正11年(1922年)には台湾サハリンを視察。翌12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生すると、同月15日に被災地を視察された。

大正15年(1926年)12月25日、父帝崩御を受け即位。新元号は「昭和」と定められた。


昭和前期編集

大日本国憲法の下で天皇は「国政を総攬し、陸海軍を統御する帝国軍大元帥する」と定められていたが、同時に天皇を輔弼すると定められている軍部暴走を抑えることは出来なかった。これについては、戦後「立憲君主としての立場にこだわり過ぎた」と悔恨されている一方、作戦や戦争指導について意見を述べられたりするなど、ある程度の介入を試みられていたことが判明している。

中国に駐留する関東軍は昭和3年(1928年)に「張作霖爆殺事件」を起こしたことを皮切りに昭和6年(1931年)には南満州柳条湖付近の鉄道を爆破、これを口実として満州事変を起こして満州を占拠、これらの軍事行動を正当化するために「満州国」を勝手に建国、清国最後の皇帝・溥儀を満州国皇帝に擁立した。

国際連盟はこの日本の軍事行動を問題視、「満州国」を日本の傀儡国家と見なした。天皇は国際協調を望んだが、この決定に反発した日本政府は昭和8年(1933年)に連盟を脱退、孤立の道を歩み始めた。


国内でも昭和7年(1932年)には「五・一五事件」、昭和11年(1936年)には二・二六事件に旧陸軍若手将校率いる部隊が政党政治に反旗を翻したにもかかわらず、「二・二六事件」において陸軍上層部が首謀者である青年将校を支持したことに対し、天皇陛下は怒りを露として鎮圧を命じられた。が、これを契機として「政党政治」は衰退、軍部が政治を牛耳ることとなり、後に軍主導政治団体「大政翼賛会」が結成されている。


日中戦争 - 太平洋戦争編集

昭和12年(1937年)、盧溝橋において旧日本軍と中国国民党革命軍との軍事衝突が勃発(盧溝橋事件)、これを契機にして本格的な戦闘へと発展する。だが、短期で終わらせられるとの目論見は外れ、泥沼の戦争への様相を見せ始めていた(日中戦争)。この事態をキッカケに米国英国との関係も悪化した。これに対し日本はアドルフ・ヒトラー率いるドイツ・ムッソリーニ率いるイタリアとの軍事同盟を締結、天皇は国際的孤立を憂慮したが事態を打開出来ず、日米交渉は決裂し開戦。第二次世界大戦太平洋戦争)に突入することとなり、ヨーロッパでは2,000万、アジアでは1.000万もの犠牲者を出す惨禍となった。

イタリア・ドイツ降伏後も日本は世界を相手に戦い続けた。日々悪化する戦局の中、昭和20年1945年3月10日東京大空襲で焼け野原となった市内を視察。5月26日の空襲では宮殿が焼け落ちたが、天皇は宮殿よりも職員の安否を案じられた。側近から建設中の松代大本営への移転を提案されたが、国民と共に苦痛を分かち合いたいと述べて頑なに拒んだという。

鈴木貫太郎元首相と共に終戦への道のりを努め、昭和20年(1945年)8月14日の御前会議でポツダム宣言を受諾し戦争を終わらせる終戦の「聖断」を下され、翌15日玉音放送において国民へ敗戦が伝えられた。


昭和後期編集

戦後、米国・英国・旧ソ連オーストラリアオランダなど連合国指導部や世論は天皇を戦争犯罪人として扱うことを主張。GHQ最高司令官に就いたダグラス・マッカーサー元帥は天皇の処遇を含めた占領政策を講じていたが、「天皇」という人物を探るため日本政府に天皇との会談を提案。9月27日に天皇が駐日米国大使公邸を訪問する形で両者の会談が実現した。

当初、マッカーサーは陛下が自身の保身を求める内容を話されるのではないかと考えていたが、陛下は「戦争の全責任は自分にあり、自分を連合国側に委ねる。どうか国民が飢えに困らぬようお願いしたい」と述べられた。

実際の詳細な会談内容は非公開となっているが、この会談に際しマッカーサーは天皇に対する印象を大きく変え、天皇の発言と考えに感嘆・敬服、「日本最上の紳士」と称した。

また、マッカーサーは本国政府に向けた報告の中で「仮に天皇を処刑すれば進駐軍に対する日本国民の大反発や混乱を招き、その場合は強力な軍政を布いるために本国からさらなる増兵が必要となる」と伝え、円滑な占領統治を行うことにより、日本を反共の防波堤とするべく、天皇を戦争犯罪人として扱わず(占領統治としての政治的な意味も含めて)生かすことを決めた。


ちなみにこの際、「モーニング姿で直立している昭和天皇と着崩した略式軍装でリラックスしているマッカーサー」という並びで取られた写真が後にGHQに天皇権威失墜工作の一環として利用される。しかし、元々マッカーサーは制服規定違反常習犯で、米陸軍参謀総長や米国大統領の前でもその様な態度を取っており、上から睨まれていた人物であった。

なお、この撮影時マッカーサー本人は記録写真以上の意識はなかった様で、天皇が帰途に着く際には、日本第1種軍装に相当する正規軍服を付け、第1ボタンまでしっかりと締めた正装姿に直立で見送ったという。


昭和21年(1946年)正月、「新日本建設ニ関スル詔書」において「五箇条の御誓文」を重んじる旨を述べられた。

2月から川崎市を皮切りに全国各地を訪れる巡幸を開始、戦争で傷付いた国民を慰め励ました。

昭和22年(1947年)に「日本国憲法」が施行され、第1条で天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると位置付けられ、いわゆる「象徴天皇」時代が始まることとなった。


陛下は冷戦の下で戦後復興高度経済成長を歩む日本と共に新たな皇室象・天皇像を築くことに努め、精力的に各地を巡り、外国を訪問し、訪日した各国首脳とも会談。国民との触れ合いも大切にされた。


1987年(昭和62年)頃から高齢による体調不良が見られ始め、9月に歴代天皇初の開腹手術を受けられた。その後、公務に復帰し回復されたかに見えたが、翌1988年(昭和63年)9月大量吐血による「ご重体」となり、一進一退状態となる。そのまま昭和64年を迎えた。


1989年1月7日6:33、87歳で崩御。歴代天皇の中では架空とされる神話古代を除き、最長在位にして最長寿の天皇となった。大喪の礼後、東京多摩武蔵野陵に埋葬された。


なお、最長寿記録に関しては次代・明仁陛下が譲位後の令和3年(2021年)に88歳となられたことで更新されている。



人柄編集

学者編集

生物学者として著書・論文がある。学者としては粘菌類、ヒドロ虫を専門とされていたが、日本の植物海洋生物全般に幅広く精通されていた。道端に生えている野草1つ1つの名前をとても大切にされており、「雑草という草はない」という言葉は良く知られている(この言葉は牧野富太郎が御進講に来た際の言葉の受売りといわれる) 。

和歌山を訪れた際に南方熊楠から進講を受け、標本をキャラメル箱に入れて献上されたが、天皇陛下は南方に好印象を持たれ、後に彼を偲んだ和歌もお詠みになられた。


改革編集

近代化を慮られた陛下は後宮側室制度を撤廃、女官通勤を承認されるなど宮中システムを明確に改革されたことでも知られる(父・大正天皇時代に確立していたとされているが明文化はされていなかった)。


今でも皇室を代表する宮中行事の1つである御田植も昭和天皇が始められたものである。ヨーロッパ訪問の際に味わったオートミールハムエッグなど、その利便性から我々が今も親しんでいる洋朝食の先鞭を付けた、いわば食文化改革者という側面もある。


趣味編集

皇室の伝統で短歌も多く詠まれ、少なくとも1万首は詠まれたといい、公表されているものは869首。スポーツはゴルフを嗜み、好角家としても知られた。1975(昭和50)年に訪米した際には、ニューヨークのシェイ・スタジアムでアメフト試合(NFLジェッツペイトリオッツ戦)を観戦している。


鉄道に対する造詣も深く、まだ試運転段階であった東海道新幹線100系X0編成(試作車)に試乗されたり、運転台を見学した際にそれを気に入り、侍従に時間を告げられても中々離れられかったとか。ちなみに、鉄道好きは長男にしっかり遺伝している。

鉄道利用は上述の吐血直前の1988年(昭和63年)9月8日、黒磯の那須御用邸から皇居に戻られる際に、黒磯駅より原宿駅側部乗降場(宮廷ホーム)まで乗車されたのが最後となった。


食物の嗜好は甘党で、芋やカボチャ、豆大福やみたらし団子などが好き。他にや青魚(サンマイワシなど)を好んだ。父・大正天皇や祖父・明治天皇同様、大の蕎麦好きでもあったと伝わるが、祖父や父と異なり煙草は好まず、酒に関してはかなり弱かった


家族編集

弟・秩父宮と高松宮は天皇とは性格がかなり異なり、秩父宮は天皇の考えに快く思われないこともあったが、兄弟仲は良く、忌憚ない議論もしていた。秩父宮が肺結核で療養する様になったが、見舞いが出来なかったことを天皇は悔やまれた。

香淳皇后との夫婦仲は円満で、彼女を「良宮(ながみや)」とお呼びになっていた。生まれた皇子女は乳母の下ではなく、可能な限り3人の手で育てた。

(当時の)皇太子・明仁親王が戦時中奥日光に疎開された際は頻繁に手紙をやり取りし、その中には敗戦原因についても自身の考えをしたためられた。

香淳皇后は天皇崩御後、皇室典範規定に則り皇太后となり、平成12年(2000)7月25日に97歳で崩御された。


逸話編集

  • 旧陸軍と旧海軍の不和に対して陛下は実際かなりお怒りであった様で、大戦中は報告に来た高級将校に「旧陸海軍間で融通すれば済むではないか」と指摘され、その度にいわれた当人は汗びっしょりとなったとか。

  • 大戦中、空襲で東京遷都以来の明治宮殿が焼失してしまったが、終戦後も周囲が建て直すといってもその都度「今は家がない人も沢山いる。私らはこうして雨風を凌げているから大丈夫」といわれ、頑としてお認めとならなかった。
    • …が、その「雨風凌げる場」というのが、対米開戦前に皇居を爆撃されてもし陛下に何かあっては大変、と極秘裏に建てた「御文庫」という総コンクリート造りの建物であった(現在も吹上御所付近に現存)。中は広く、また陛下が不自由な思いをされない様に遊戯設備なども設置されていたが、如何せん既に物資欠乏気味の時期に突貫工事で建てた代物なので頑丈は頑丈であるが、通気性は悪い上、平べったい屋根のあちこちから建物内部に雨水が侵入していて、特に夏場は不快極まりない場所となっていた。1度修復を試みて試験的に雨水が入り込んでいる場所に穴を開けたところ、出水規模の水が出て来て周囲は顔面蒼白、何とか頭を下げ倒して仮御所として宮内庁ビル3Fの一室に移って頂いた。
    • その後昭和35年に国会で新宮殿建設の予算が付き、その時は側近が「国民は大丈夫ですから」と何とかいって天皇陛下をご説得し、「ふぅむ、それなら造ろうか」と陛下が御納得されて現在の吹上御所が建設されることなった。
    • 翌年の国賓を招いての落成式典の際、米国からの使節に「新しいPalace(宮殿)ですね」といわれ、「前のはあなた達が燃やしたからね」と皮肉ったブラックジョークで返したエピソードは有名。

  • 1度フグ料理を食べてみたかったらしいが、その度に万一の場合を慮った周囲からフグは駄目といわれて止められていた。息子(皇太子・明仁殿下、ではなく次男・常陸宮正仁親王)が毒抜きのものを持って来られたが、それでも駄目といわれ流石に我慢が出来なかったらしく、「(昭和天皇のところに運んで来た)侍従は不忠者ということか?」「フグ料理は東京都のライセンスがなければ出来ないが、東京都知事の許可を貰っている者の料理であるから良いではないか」と、理屈で「何としても食べたい」御意志を主張、この際は香淳皇后の一言で何とか収まったが、以来昭和天皇の前で「フグ」は禁句となったという。
  • 戦後全国巡幸で北海道へ視察すべく洞爺丸に乗船したがその後洞爺丸沈没事故で亡くなった犠牲者やその遺族を寄り添うべく和歌を詠まれたエピソードがある。

評価編集

先帝陛下「来ちゃったw^^」

歴代最長の在位期間を誇るためか、皇室関連タグの中では42(2024年11月12日現在)と数もかなり多い。また、記憶に新しい晩年の御姿のみならず、上記の挿絵の様に若き日の軍装や終戦後の行幸姿を描いたものも多く、昭和世代の多くの人の心に生き続ける天皇である。


終戦のエンペラー』や『天皇の料理番』などで描かれた人間味溢れる人柄を敬慕する風潮も多い。一方で、戦争責任問題に関する非難を受けることも多く、特に昭和期における国民の天皇に対する感情は複雑なものがあり、平成令和時代と比べても天皇に対する好感情はさほどなかったという世論調査もある。

海外においても、戦争時の国家元首という立場から毀誉褒貶が激しい(どちらかといえば批判的な)人物でもある。日本当時の実態を理解している外国人は少なく、外国政府がヒトラーやムッソリーニと同列に扱うこともあった



皇統編集

成子内親王東久邇盛厚王

祐子内親王

和子内親王鷹司平通夫人

厚子内親王池田隆政夫人

・明仁親王(第125代・上皇

常陸宮正仁親王

貴子内親王島津久永夫人



関連動画編集

ダヴィンチアカデミー




関連タグ編集

天皇 昭和 皇室

明治天皇 大正天皇 香淳皇后 明仁 乃木希典 溥儀 東條英機 近衛文麿 鈴木貫太郎 ダグラス・マッカーサー 南方熊楠

みどりの日 昭和の日


皇位

第123代第124代第125代
大正天皇昭和天皇明仁

台湾元首

第123代天皇第124代天皇中国第2・4代国民政府主席
大正天皇昭和天皇蒋介石

朝鮮元首

第123代天皇第124代天皇朝鮮人民共和国主席
大正天皇昭和天皇李承晩

南洋諸島元首

第123代天皇第124代天皇第33代アメリカ大統領
大正天皇昭和天皇ハリー・S・トルーマン

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