御名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)
允恭天皇の第五皇子。
精力的な人物と伝え、初めて大臣・大連の官位をお定めになった。
その治世は大和朝廷の権威が充実していた最後の時期(5世紀前半)に相当。
雄略天皇は、日本列島の埼玉方面から熊本方面に至る広い領域を、大きくまとめ上げておられた。
朝廷の権力を確立した人物である一方、暴君としての逸話も多い。
雄略天皇22年(西暦478年)に当時の中華の宋の順帝に上奏文を送った。
宋時代の文献に登場する「倭の五王」の一人「武」が、雄略天皇の可能性が大とされている。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文「獲加多支鹵大王(ワカタケルノオオキミ)」こそ、雄略天皇のことであるとされる。
信用できる複数の金石文に確認できる「治天下」(天下を治める)という語から、この時代に、ついに長年の支那(現在の中国)への服属関係を解消すべき局面を迎えたことが確認できる。
雄略天皇の時代になって、日本の君主が皇帝の臣下と位置づけられる状態に終止符が打たれ、こののち、中華皇帝と日本の君主の間に君臣関係が復活することは、二度となかった。
また第11代垂仁天皇の時代には皇祖天照大神をお祀りする伊勢神宮の「内宮」が、現在の伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座したが、一方、食物をつかさどる豊受大神をお祀りする「外宮」は、雄略天皇の時代にその神霊をよそから伊勢の地におうつしした(雄略天皇21年)。
このことは、雄略天皇の時代に君主の権威が目立って向上し、当地の仕組みにも発展があったのと同時に、君主の祖先神をお祀りする聖地で、祭祀をより丁重におこなうための新展開があったものと認められる。
皇統
・白髪皇子(しらかのみこ、第22代・清寧天皇)
・栲幡姫皇女(たくはたひめのひめみこ)
- 妃:吉備稚媛(きびのわかひめ、吉備氏の娘)
・磐城皇子(いわきのみこ)
・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)
- 妃:和珥童女君(わにのわらわきみ、和珥深目の娘)
・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)仁賢天皇皇后