大連
だいれん
- 「おおむらじ」⇒大和時代に置かれた役職で、6世紀から7世紀半ばまで物部氏が独占・世襲していた。
中華人民共和国の東北地方・遼東半島の最南端に位置する。東は黄海、西は渤海、南は山東半島と海を隔てて向かい合い、北は広大な東北平野に隣り合っている。
実は中国国内にとってはそこまで知名度の高い都市ではない(旧満州国にあたる東北地方は、いうほど国内に知られていない)ものの、日本にとっては最も馴染みの深い都市の一つであり、また中国側にとっても最も親日的な都市の一つとして知られ、国内有数の日本人街がある。また、日本領事館こそは瀋陽にあるが、大連に出張所(大連事務所)が設けられ、事実上こちらが領事館のように機能している(理由は瀋陽を参照)。
経済開放区としても知られる。アメリカは大連を経済拠点として重視しておりファイザー、インテル、オラクルなどといった大企業が多数進出している(実は瀋陽とは裏腹に、大連は親日でもあるとともに、反米感情が極めて高い都市でもある)。
魏晋の時代には三山と呼ばれ、唐朝には三山浦、明・清時代には三山海口、青泥窪口と称した。
1880年代に清朝が大連湾北岸に砲台を築き、都市が形成され始めた。
日清戦争後の1898年、三国干渉で清国を救済した見返りとして、大連のある遼東半島先端部を租借する権利を得たロシアが「ダルニー」(Дальний;「遠い」)と命名。
シベリア鉄道と連絡する東清鉄道を建設、港の整備、フランスのパリをモデルにした都市計画、郊外の旅順に要塞建設をした。
1904年に勃発した日露戦争後の1905年ポーツマス条約により遼東半島先端部の租借権はロシアから日本に移ると清朝の地名「大連湾」から「大連」が都市名として採用。更に関東都督府と南満州鉄道にインフラの整備を続行させ、港湾施設を拡張。都市計画を踏襲して西洋風の建築物が立ち並ぶ街路と市電を建設し旧市街がほぼ現在の形になった。
大連の人口は、ロシア統治時は4万人程だったが、1940年には60万人を超え、アジア有数の貿易港になった。
第二次世界大戦末期の1945年、日ソ中立条約破棄によりソ連赤軍が対日参戦、大連は占領された。
同年9月に戦争終結後も、同年8月に結ばれた中ソ友好同盟条約に基づきソ連は大連港を旅順港や南満州鉄道と共に引き続き管理下においたが1951年に中華人民共和国に返還、同時に旅順市を合併し、「旅大」と改称。1981年には大連に戻した。
現在も大連市電は路線が縮小されたが健在。戦前の日本車輌製造製のレトロな車両と、最新型(といっても中国製)の低床車両が走っている
旧旅順市の旅順口区は軍事基地が有るため2009年までは外国人は立ち入りが完全に規制された。現在も軍事関連の施設以外は解放されている。