概要
唐(とう、拼音:Táng、タン、618年 - 690年,705年 - 907年)
長安(現在の西安)を都とし、7世紀の最盛期には、シベリアや中央アジアの砂漠地帯も支配した大帝国。朝鮮半島や渤海(現ロシア沿海州)、日本などに、政治政策・文化などの面で多大な影響を与えた。
歴史
南北朝時代、北周王朝の唐国公の家系に生まれた李淵(高祖)が、続く隋を滅ぼして建国した。李淵は北周の貴族であったが鮮卑系とも言われる。国名の由来は祖先の爵位唐国公から。その息子李世民(太宗)の時代に大きく発展し、モンゴル高原の突厥や中央アジアの高昌を征服した。内政も整備され、その治世は「泥棒がいなくなり、民は戸締りをせずに暮らせた」という伝説もある「貞観の治」と讃えられる。
690年に高宗の皇后であった武則天(則天武后)によって唐王朝は一旦廃されて周王朝が建てられたが、705年に病床に着いた武則天が退位して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。武則天は政治家として優れていたので、国号は変わっても唐の繁栄は続いた。武則天退位後の唐では、皇后の韋氏が皇帝の中宗を暗殺するなど一族の内紛が続く。
この後712年に李隆基(玄宗)が即位し、内紛を収めて唐王朝を建て直す。玄宗の治世は「開元の治」と呼ばれ、唐の最盛期になった。長安の人口は100万人を超え、当時では世界最大の都市となる。また文化面でも、詩人の李白や杜甫が現れ全盛を迎える。しかし、辺境防衛の為に節度使が置かれ、地方の軍事と行政を掌握するようになったのが、災いをもたらす。755年、玄宗に重用されて平盧・范陽・河東節度使を兼ね、北方守備の大軍を率いていた安禄山が安史の乱と呼ばれる反乱を起こす。安禄山の軍勢によって長安は攻め落とされ、唐は一気に滅亡の危機に陥る。反乱の原因になったとされて殺された寵姫楊貴妃と玄宗皇帝との悲恋は白居易(白楽天)によって長恨歌という漢詩になり、日本でも知られる。
安禄山が息子に殺される等の反乱軍の混乱をついて、次の粛宗は757年に長安を奪還し、763年には当時反乱軍を率いていた史朝義が諸将の離反により自殺する。こうして安史の乱は収めたものの、唐は次第に衰退していく。その主な原因は安史の乱をきっかけにして各地の節度使が軍事力にものを言わせて地方に割拠し、独立性を強めたことにある。憲宗は禁軍を強化して反抗的な節度使を討伐して中興の祖と呼ばれたが、その死後は再び節度使の専横が強まってこの軍事的な不安定さは最後まで解消されなかった。やがて塩の密売業者を中心とする黄巣の乱という大規模な反乱が全土に広がり、907年に唐は滅亡する。それから北宋の成立に至るまで、中国大陸は五代十国と呼ばれる乱世の時代に入った。
日本との交流
663年の白村江の戦い(日本&百済vs唐&新羅)もあったが、その後は遣唐使などを送り、894年に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。
遣唐使停止の13年後に唐は滅亡し、室町時代の日明貿易まで日本と中国大陸の間の正式な国交は絶えた(しかし、民間での交流は絶えず続き、引き続き日本に大きな影響を与えている)。
歴代中華王朝の中でも政治.文化.芸術等で多大な影響を受けており、日本では唐の滅亡後も唐(から)、唐土(もろこし)の語は中国、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。唐辛子や、トウモロコシは、原産地は南米で、日本に持ち込んだのは南蛮人であるが、本来は関係ないはずの「唐」の名がついている。
中世などには大陸から輸入した品物を唐物と呼んだりした。
ただし、日本では「中国」の代名詞・別称となった唐だが、中国史では浸透王朝(漢民族以外が建てたが最終的には支配者層は漢民族に同化した王朝)の1つとされている。
関連タグ
唐辛子 唐芋 トウモロコシ 唐揚げ 唐傘 唐瓜 唐茄子 毛唐