概要
17世紀から20世紀まで存在した、中国史上最後の王朝 1636 - 1912(1924)。満州人による征服王朝で、歴代中国王朝の最大版図を獲得した。
Pixivのタグとしては中国のこの時代をモチーフとした作品に使用される。
大清帝国
1636年に愛新覚羅氏族による後金から改名し、1644年に明が反乱によって滅亡したのに乗じて中原以南に進出し大陸を支配する王朝に拡大した。1912年の辛亥革命によって崩壊するまで存続したが、1924年までは朝廷組織として存続した。
漢民族からは北夷(北方の異民族)にあたる満州人(満洲民族、満族、女真族)による国家である。漢族以外の北方民族による王朝は「征服王朝」と呼ばれ、遼、金、元の先例があり清が最初ではない。清もそれ以前の征服王朝と同じく中国内地においては漢民族の伝統的官僚制度を温存し、また故地においては独自の軍制を敷き皇帝の一族がその上に君臨する二重統治体制を敷いた。それでも、圧倒的多数、かつ悠久の歴史を誇る漢族の上に立った満州族は、中華文明に飲み込まれ中国化が進んでいった。北京在住の皇族ですら満州語は儀礼言語程度のものでしかなくなり、最後の皇帝であった溥儀が理解できた満州語は「立て」のみだった。
中国の歴代王朝は宦官の処遇を巡って大いに悩まされたが、この問題について清朝の皇室は特異な答えを持っていた。満州族には包衣(満州語でボーイ)という、貴人の家の家政に従事する世襲の下級旗人がいて、主人と深い絆で結ばれていたために宦官に頼るという発想がなかったのである。
このため、密通の恐れがある後宮に住む女性の世話などを除いては宦官は用いられず、その地位も包衣の管理下に置かれたため、清朝が存在する間皇族に取り入って私財を蓄えるような者は存在しても、宦官が国政を大きく乱したという事例は起きなかった。
沿革
清は近世・近代アジア最大の影響力を持つ勢力として君臨した。文化が栄え経済も繁栄して、約270年間ものあいだ存続した。この背景には、名君に恵まれ暗君が少なかったことがある。もともと満洲人には部族長会議で最も優れた人物を指導者に推戴する慣習があり、中国伝統の皇帝独裁の制度を取り入れてからも「政権は一族の共有財産」という伝統が残り、また第5代皇帝雍正帝が定めた「太子密建」という後継者指名の方式をとり(皇帝が後継者を指名した遺言書を作り、逝去後に諸人の前で封印を解いて後継者を公表した)後継者争いが避けられたことが大きい。
しかし、当時の帝国主義によるヨーロッパ諸国の勢力が及び始め、1842年のアヘン戦争の敗北により半植民地化の道をあゆむようになった。中国人(主に漢人)の人心は離れ、太平天国の乱に始まる大規模な反乱が相次いだ。更に比較的、安定していた清の統治下では中国大陸の人口は急増していたものの(トウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、ピーナッツなどの新大陸の作物がもたらされ食糧事情が改善された事が大きい)その人口に見合った耕地や経済が追い付かず、結果的に経済格差が広がり、困窮する下層階級が増加していたことも社会不安を増大させた。
近代化の必要性を痛感した漢人官僚たちはヨーロッパの近代技術と軍備を取り入れ、皇帝を元首として立憲君主制を取り入れ議会を設置するなど「洋務運動」を進めるが、守旧派の巻き返しにあい挫折。後から明治維新による近代化を進めた日本に追い越され、1895年の日清戦争の敗北で欧米各国ばかりか日本にまで侵略・植民地化される有様となった。ついに1911年に革命(辛亥革命)が起こり「中華民国(袁世凱政権)」が樹立され、大清帝国は事実上の滅亡を迎える。しかし、1924年までは皇帝と紫禁城の三省六部(朝廷)的組織はそのまま存続した。
大満州帝国(1935年-1945年)は清の最後の皇帝である溥儀が皇帝として即位したが、満州国の行政権は帝国陸軍の一部隊にあたる関東軍に掌握され、溥儀は傀儡でしかなく、清朝の後身扱いされることはほとんどない。
清朝皇帝
清朝の皇帝は、「満州族の首長」「中華帝国の皇帝」「モンゴル族の帝王(ハン)」「チベット仏教の擁護者」という4つの顔で大帝国を統治していた。一人の君主が複数の政治的共同体を統治する「同君連合」といいうる体制である。
歴代皇帝
初代・太祖ヌルハチ
2代・太宗ホンタイジ
3代・世祖順治帝
4代・聖祖康熙帝
5代・世宗雍正帝
6代・高宗乾隆帝
7代・仁宗嘉慶帝
8代・宣宗道光帝
9代・文宗咸豊帝
10代・穆宗同治帝
11代・徳宗光緒帝