概要
順治帝
(じゅんちてい・ジュンチー・ディ)
世没:1638年3月15日 - 1661年2月5日〈23歳〉
在位:1643年10月8日 - 1661年2月5日〈18年〉
清帝国第三代の皇帝、姓名は愛新覚羅福臨〈アイシンギョロ・フリン〉廟号は世祖。元号〈順治〉の皇帝なので順治帝と称される。
1644年に明朝の遺臣・呉三桂の先導により清軍が入関して李自成を駆逐し北京を落とすと北京に遷都した。太宗ホンタイジが紫禁城入城直前に崩ずると息子が〈順治帝〉が急遽帝位についた。即位時の年齢は5歳であった。先帝ホンタイジは副官ドルゴンを主席摂政親王に指名し、順治皇帝が政権の親政ができるまで叔父のジルガランとともに清帝国を2重臣総理大臣による集団指導体制にさせた。
順治帝が10代に入ったころ親政を開始した(清朝は10代で皇帝として政治を行う確立が以前の皇帝より高いように思う)。このころ薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。内務府(宦官達の中央官庁)明帝国時代に紫禁城にいた宦官を統制し、八旗軍(24旗軍)を紫禁城側の禁旅軍と地方軍の駐坊軍の二軍に分け、さらに漢人(中国本土人)からの徴用する歩兵組織(陸戦隊)の緑営軍も創設した。漢人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明(華南で決起した明の皇族などによる反清勢力)の永暦政権を討たせた。
更に1645年に予親王ドドに南征させて揚州を屠り南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。1651年にドルゴンが病没すると順治帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。翌年の1661年、重病をわずらい養心殿で崩御したといわれる。 享年23歳。
- 肖像画をみるとぽっちゃりしているが康熙帝以前の皇帝までは、絵師による想像による肖像のようだ。
- 信心深い性格であり最初キリスト教に入信して、神父アダム・シャールを尊崇したが家臣たちに神父アダムは遠ざけられた。中華の皇帝がキリスト教にすがるのは異例である。
- キリスト教が遠ざけられると仏教〈ラマ教〉に傾倒し、高僧の玉林琇・木陳忞らを尊んだ。1660年に愛妃の棟鄂氏が病死すると出家しようとしたが群臣に止められたという。
- 結局1661年に意を決して五大本山へ出家してしまったいう説がある。
関連
宦官・・・中華文明独自の去勢官僚、神代の時代から皇帝の奴隷として存在しており、唐時代に権力層となる。