地域
ユーラシア大陸のヒマラヤ山脈や崑崙山脈に挟まれ、平均高度約4500mの高原が広がるアジアの地域。主にチベット民族が住み、チベット仏教を信仰している。その最高位がダライ・ラマで、現在はダライ・ラマ14世。
中心都市は「拉薩市(ལྷ་ས་/La1sa4)」である。
莫大な水源地であり、インダス川、ガンジス川、黄河、長江、メコン川、サルウィン川、ブラマプトラ川などの源流で、これらの水源に依存するのは、アフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュ、ネパール、ブータン、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、中華人民共和国であり、依存人口は30億人とされ、世界の給水塔とも呼ばれる重要地帯である。
名称
チベット語で「བོད」と表記され、bod(プー)と発音される。
汉語では「西藏」(xī zàng、せいぞう)と呼ばれている。
英語の表記は「Tibet」で、中国側もこれを採用している。
これに従い「チベット自治区」は、汉語では「西藏自治区」、英語では「Tibet Autonomous Region」と表記される。チベット語では「བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས།」(プー ランキョン ジョン)。
歴史
7世紀初頃にプギェル氏によってチベット諸族が統一され、吐蕃(とばん)王朝が成立。伝説上の初代王ニャルティツェンポを天から降臨した神と見なす神聖王権であったが、8世紀ごろに仏教を国教とし、12世紀ごろまでには仏教が民衆にも根付くようになった。唐朝とは対立が続いて、一時は長安にまで侵攻したが、9世紀に両国は会盟を交わした。だが吐蕃はダルマ王が842年に暗殺されてからの後継者争いによって分裂し、やがて解体した。インドにイスラム勢力が侵攻する中で、チベットには多くのインド仏教の教派が伝えられ、あるいは高僧が逃れ住む場にもなっていった。
12世紀からモンゴル帝国の侵攻を受け、親モンゴルの立場を取ったインド後期密教の流れをくむサキャ派がサキャ・パンディタを指導者としてモンゴルの影響下でチベット仏教の主流派になった。サキャ・パンディタの甥であるパスパ(パクパ、八思巴)はクビライに仕えて帝師とされ、パスパ文字を開発するなどサキャ派は隆盛を極めた。
しかしモンゴル衰退後はチベットの独自性を強調する立場も生まれ、7世紀にソンツェン・ガンポ王が観音の祝福によって仏教を導入しチベットを統一し、唐の皇女文成公主を皇妃に迎えたといった信仰が生まれた。ラサの街がソンツェン・ガンポ王の築いた聖地とされ、信仰を集めるようになる。14世紀頃にカルマ・カギュ派によって転生相続制が成立し、それまでの高僧継承の仕組みに代わって大衆の中から高僧の転生した子供を探し、後継者として教育する仕組みが生まれた。この仕組みは布教に役立ったこともあって、他派にも広まっていく。
この頃再びモンゴルが復興し、チベット仏教各派は競ってその庇護を求めるようになる。14世紀に誕生したツォンカパによって起こされたゲルク派は、モンゴルの覇者となったアルタン・ハーンに招かれ、その高僧ソナムギャムツォはアルタン・ハーンからダライ・ラマの称号を贈られた。この後、モンゴルにおけるチベット仏教は急速に復興していく。チベットはラサを本拠地とするゲルク派とシガツェを本拠地とするカルマ・カギュ派が二分してモンゴル・チベット武将の援護を得て争うようになったが、1642年にオイラト族出身の武将トゥルバイフがゲルク派のダライ・ラマ5世からグシハンの称号を得てチベットを制覇し、ダライ・ラマ一族とそれを支えるグシハン一族の政権が成立。
清朝とチベットの関係交渉は順治帝の頃から始まり、康熙帝はチベットへの干渉を強め、グシハン体制による自治を維持させた。しかし、18世紀前半に雍正帝はチベットの支配体制を変えようと、後継争いによる内紛に乗じて出兵。グシハン一族を屈服させ、ダライ・ラマ領と四川や雲南といった清朝支配地などに地域を分割。完全に清朝の影響下に置かれた。
19世紀に反乱が起こるも、現地のガンデンポタン政府が収束させた。再び清軍の侵攻を受けるも、清朝の完全な消滅で、再びダライ・ラマとガンデンポタンの政権がチベットを統治した。
中華民国は清朝の支配領域を継承すべく、チベット支配を主張したが、独立は続いた。
20世紀になってイギリスがチベットへの干渉を始め、一方のチベットは近代化を図った。第二次世界大戦では中立を保った。
1949年に中華人民共和国が成立し、毛沢東率いる中国共産党はチベットを「中国の一部として解放する」として(清朝時代チベットのほとんどが領土であり、孫文らによって建国された中華民国も自国領としていた)、1950年に人民解放軍がチベットへ侵攻し、完全に併合支配した。幼少期にマルクス主義に影響されていたダライ・ラマ14世は、当初中国共産党への入党を希望していた。しかし、北京で毛沢東との会談時に「宗教は毒である」と発言され、彼は疑念を深めた。その後のチベットに対する中国共産党の本格的なチベット侵攻に対抗し、チベット側の抗中武装組織が結成され、侵攻に対する戦闘へと発展した。(チベット動乱)
そのチベット動乱がラサまで波及する見込みとなり、ダライ・ラマ14世は生命の危機を感じた。そのためCIAの援助を受け、1959年にインドへ亡命した。ちなみに当時のソビエト連邦最高指導者のヨシフ・スターリンはこの侵攻を認め、毛沢東に「結構なことだ」と述べた。
1965年にチベット自治区が設置され、80年代に改革・解放政策の中で胡耀邦総書記はチベット自治区のチベット人による自治と文化を回復させようとしたが、亡命政府との交渉が失敗し、更迭後はこの政策は撤回された。
なおインドに亡命政権「ガンデンポタン」が存在し、独立(「高度な自治」を要求する場合も)を主張している。ちなみにダライ・ラマ14世は、独立を標榜せず高度な自治を要求している。これは「地政学的、経済的観点からチベットと中国は切り離せない」と猊下が考えているためである。
当然ながら独立派も存在する。2008年のチベット騒乱時では、ガンデンポタン内の独立急進派が、「北京五輪北京オリンピック>前なら中国政府は弾圧しないだろう」と見越してデモを繰り広げたものある。一方で、五輪開催に向けチベット問題を国際社会にアピールする狙いがあるとする意見もある。
なお現在、台湾を実効支配する中華民国政府も、チベットを自国領土とみなしている。これは清朝の支配地域が、中国領土だと考えているためである。
余談
- 某人気漫画に登場する秘術のようなものがあるのかは定かではないが、東洋武術の発祥地とされることもある。
- ソンツェン・ガンポ王と文成公主の成婚はチベットと中国の和合を象徴する事例として長く尊ばれてきたが、中国共産党はパンチェン・ラマ10世と李潔女医との結婚をその再来のごとく喧伝した。無論、前者のような平和的・和合を重んじたものではないのは明白である。
- 仏教国(チベット人からはそう見えるとのこと)である日本の仏教界と親交が深く、河口慧海をはじめ多田等観、青木文教など多くの僧侶や探検家がチベット入りしている。また、今でも僧侶だけでなく登山家やバックパッカーにとって聖地と言える人気を持つ。
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