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概要

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、グルジア語:იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、1878年12月18日 - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。1924年1月から1953年3月まで同国の最高指導者であった。(ボリシェヴィキ党)書記長、閣僚会議議長を兼任した。

経歴

1878年12月18日にロシア帝国グルジアのゴリに誕生した。1894年9月から1899年5月まで神学校で学ぶも無神論者となって共産主義に傾倒し、1901年11月にロシア社会民主労働者党に入党して暴力革命家となる。その後革命家として地下活動を続け、論文発表で筆名の「スターリン」を名乗った。初代「赤い皇帝」・共産主義の大看板・レーニンの残忍さとユートピア計画の正当な後継者である。

1917年2月のロシア革命に参加し、ボリシェヴィキ党内で頭角を現した。1922年4月に党書記長に就任し、1924年1月にレーニンが死去すると、スターリンは政敵のトロツキーやブハーリンを排除して最高指導者となり、死去する1953年3月までその地位にあった。なおトロツキーはソ連から追放した後、しばらく経ってから暗殺者のラモン・メルカデルをメキシコへ送って暗殺し、ブハーリンは失脚させた後に見世物裁判で処刑した。それ以降スターリンは問答無用の存在感とソ連及び世界中の共産党への最高権力を振りかざし、自身に歯向かう者を容赦無く消し去る超冷酷オヤジとして歴史に名を刻むことになる。

ただし、特に中国共産党などは戦前からソ連の統制から独自に動いており、それだけが原因では無いが、スターリンも中国における交渉相手としては当初はむしろ国民党の方を想定していた。

私のテンポ(リズム)を乱したものは消えろ

1922年4月に党(当時の名称はロシア共産党のボリシェヴィキ)の書記長に就任して主導権を得たスターリンは、急速な工業化と産業の集団化に邁進した。さらに政治家軍人はもとより、一般の人々に至るまであらゆる層の人々を大量に粛清し、監視社会体制を確立した。この時の万能感を得た傍若無人の独裁者ぶりは後に赤い皇帝とあだ名されるようになり、共産党の指導者というものは何においても万能的権力を振りかざしても構わないというロジックを共産主義者に刷り込んだ。

共産党対ナチ党の最終決戦

1939年8月にアドルフ・ヒトラーが率いるナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、ヨーロッパをドイツとソ連で分割することを取り決める。この条約に基づいて行われたポーランドの分割・バルト三国の併合・フィンランド侵攻(冬戦争)などの侵略行為が国際的な非難を浴びた。1941年6月にナチス・ドイツは間も無く不可侵条約を破棄してソ連に侵攻し、第二次世界大戦で最も悲惨と言われる独ソ戦(ソ連側の呼称は大祖国戦争)の火ぶたが切られる。なおスラヴ民族を蔑視し共産主義を敵視するナチは文字通りの絶滅戦争、反撃するソビエト連邦軍は占領地での報復・協力者への懲罰など非人道的な行為を多数行った上にソ連側が焦土作戦をとったため、両国の戦いに巻き込まれた諸国民には大変過酷なものになった。

アメリカ合衆国・イギリスから援助を受ける連合国ではあったが、アメリカトルーマン大統領とイギリスチャーチル首相とは対立していた。1945年8月8日に良好だったアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とのヤルタ密約に基づいて対日参戦し、満州・樺太・千島列島に侵攻した。共産党対ナチ党の悪魔的政党の最終決戦はスターリン率いる共産党の大勝利となり、国際社会においての魔王的存在感を確立した

第二次世界大戦は連合国の勝利に終わり、ソ連は東ヨーロッパを自らの勢力におさめ(衛星国)、世界はアメリカを中心とする西側とソ連を盟主とする東側に分かれた冷戦へと時代は移る。アジアでも金日成北朝鮮毛沢東中華人民共和国を支援した。国内では個人崇拝や強烈なプロパガンダを布き、核兵器原子力開発を急がせた。

1953年3月1日に部下との徹夜の宴会の後に寝室に戻ったが、脳卒中で倒れて右半身麻痺となり、昏睡状態に陥った。一時は意識を回復するも、重い後遺症のため意思疎通がままならない状態であり、病状の悪化により同年3月5日に74歳で死去した。死後に国葬が行われ、ソ連から『全人類の教師』の称号を贈与された

人物

性格など

自分が少数民族のグルジア人であるにも関わらず、グルジア人が現地カフカースでは支配的な多数派であることを意識していた。そこでウクライナ・ベラルーシなどをソ連の構成国とするレーニン案に対し、全ての非ロシア人少数民族地域を自治区としてロシア連邦に組み込むと言う「自治化案」を提出した。

一方で独ソ戦中にはロシア人を「第一の民族」と位置付け、ロシア民族の国粋主義をソ連の防衛に活用した。戦後にはイスラエルの親西側傾向を受け、医師団事件などユダヤ人陰謀論にも思える側面を見せた時期もある(ただし、大テロルの時代も生き抜いた旧知の副官カガノヴィチはユダヤ人)。人間不信で疑い深く臆病、権力欲と顕示欲が強い性格で、このような性格は独裁者になると一層増幅され、家族や肉親ですら信用せず、被害妄想と言えるほど周りの他人を疑って接していた。

母と長女だけは別であったが、長女の方は恋愛絡みで酷い干渉を受けた(最初の恋人がスパイ容疑でシベリア送りとなった)件を根に持っていたらしく、スターリンの死後10年も経ってからアメリカに亡命してソ連を捨て、出版した回顧録で父親を「孤独感と絶望感から来る弾圧マニア」とボロクソに叩いていた。

猜疑心

1950年1月にベトナムの共産主義革命を指揮したホー・チ・ミンが極秘にソ連を訪問したことがあった。スターリンはホー・チ・ミンをスパイと疑っていたが、ホー・チ・ミンはスターリンに初めて会ったためか感激し、サインを求めた。スターリンは渋々ホー・チ・ミンが差し出した雑誌にサインしたが、すぐこれを後悔して秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させてしまった

その後、スターリンはサインが無いことに気付いて慌てるホー・チ・ミンの様子を聞いて喜んだという。後に「あいつはまだ探しているのか?見つけることは出来んぞ。」と嘲笑のタネにしたとも言われる。後年にフルシチョフは自伝記でスターリンのこの行為を指して、「純粋で共産主義的な人物にひどい接し方をした。」と批判している。

上記のように直接的な死因は脳卒中だが、間接的には他人を信用しなかったことによる発見・治療の遅れが原因ともされる。なお一説にはスターリンから「指示があるまで絶対起こすな。」と厳命された警備責任者がいつまでも指示が来ないことに不審を感じるも、スターリンの怒りを買うことを恐れて何もせず、夜遅くになって部屋に入った家政婦が倒れているスターリンを発見したとされる。治療の遅れに関しては長女の回顧録によると、倒れた際に側近たちがいたにも拘らず、やる事なす事に全員我慢の限界だったのか放置したとされており、いまだに諸説入り乱れている。

また、ある側近が「流石に毒には勝てなかった。」と零していたとの記録が存在しており、そのせいで毒殺説も現在まで存在し続けている。

生活

趣味は温室でのレモン栽培・映画(特にアメリカ製)鑑賞。レモンを来客に食べさせては嬉々として自慢していたが、映画鑑賞に関しては周りにまともなロシア語の翻訳ができる人がいなかった為、映画産業の責任者が必死に暗記したり適当なアドリブで凌いでいたとか。しかし、スターリンはむしろ馬鹿げた通訳騒ぎを楽しんでおり、決して専門の通訳を入れようとしなかったらしい。なお、スターリンは大衆的な娯楽映画を好んでおり、アメリカ映画を多く取り寄せていたという。

大の読書家でもあり、蔵書は約2万冊に及び、それらはクレムリンの住居・別荘にきちんと分類されて置かれていた。本のジャンルも様々で、マルクス・エンゲルス・レーニンの著書などはもちろんの事、哲学書・文学書・歴史書・軍事書・果ては粛清した政敵の著書であるヒトラーの『我が闘争』などもあったという。スターリンはこれらを寸暇も惜しんで読みふけり、色鉛筆でアンダーラインを引いたり余白に書き込んだりするのを楽しんだ。訪問客には机上に置かれている新刊の包みを指差して、「私の読書ノルマは毎日500ページです。」と語ったという。

飛行機が苦手で、列車での移動がほとんどだった。特異かつ捻じ曲がったユーモアセンスがあり、側近を結構キツイ方法でからかう・個人的なお遊び(部下を酔い潰すのが好き)と実益(忠誠度チェック)を兼ねて毎度仕事の終わりに宴会を開催しては部下に酒を沢山飲ませていた。当然側近は例外無く腎臓か肝臓のどちらかがアルコールでボロボロだったという。

家族

1906年7月にエカテリーナ・スヴァニゼと結婚し、1907年3月にヤコフが誕生したが、同年11月にエカテリーナは腸チフスで死去した。その後は1919年3月(正式に結婚が登録された日)にナジェージダ・アリルイエバと結婚し、1921年3月にワシーリー・1926年2月にスヴェトラーナが誕生したが、1932年11月にナジェージダは死去した。

余談・その他

語録

  • とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
  • 「感謝とは、に悩まされて気分を悪くするようなものだ」
  • 「諸君はドイツからのニュースを聞いたか? 何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男は凄い奴だ! 奴は政敵をどう扱えばいいかを見せてくれた」(ドイツでの「長いナイフの夜」事件で、ヒトラーがエルンスト・レーム率いる突撃隊の粛清を聞いての発言。この事件をベースに大粛清を決意したとも言われる)。
  • 赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである」(冬戦争でのロシア人捕虜の話を聞いて)
  • 「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしているんだよ」(1935年に死期の近づいた母のお見舞いに行き、彼女に「どんな人になったの?」と聞かれた際に。ただ、息子の悪名は耳に入っていたのか母は「司祭になってもらいたかったのにねぇ」と零し、それを知った殆どの人民が大喜びしたとか。ただし直前に「どうして(子供のころ)あんなに僕を殴ったの?」「だからそんなに立派になったのよ」という会話もなされている)
  • 「ろくでなしがくたばりやがった」(ヒトラー自殺の報を聞いて)
  • 日本は最後にはまた這い上がってくる」(大戦終結直後)
  • チベット攻撃?結構な事だ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められての返事)
  • 「北朝鮮は永久に戦い続ければいい。なぜなら、兵士の人命以外に北朝鮮が失うものは何も無いからだ」(朝鮮戦争について周恩来に語った一言)
  • 「私はもうお終いだ。誰も信用できない。自分さえも」(1951年にフルシチョフに語った呟き)


スターリンの発言によく帰されるが別の人の発言

  • が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」
(Смерть решает все проблемы. Нет человека, и нет проблемы)
1987年4月に出版された『アルバート街の子供たち』(著作:アナトリー・ルィバコフ)の一節だが、本家のロシアでもよく誤ってスターリン本人の発言に帰されるらしい

スターリンの容姿は影武者説

我々がよく知る「恰幅がよく口髭をたくわえたあの容姿は実は影武者のもの」であったと言われている。本物のスターリンは過去に罹患した天然痘の痕が顔に残っていたとされる。しかし、写真の加工により痘痕が消されているだけで本人であるという可能性が高い。

本名

  • ヨシフ(正確なロシア語発音はイオシフ)・スターリン
  • ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語)
  • イオセブ・ベッサリオニス・ヅェ・ジュガシヴィリ(グルジア語)


関連タグ

次代→マレンコフ

悪魔魔王
赤い皇帝 全人類の教師悪の教師
ソ連 赤いpixiv 共産主義
ロシア おそロシア 暴君 独裁者
レーニン フルシチョフ
ヨシフ・スターリン
岡田眞澄 ヒューズ(APEX)
有田芳生…「芳生」はスターリンの名前から取られている

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