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冷戦

れいせん

直接戦火は交えないが、国際間の対立抗争の状況。主に第二次世界大戦後のアメリカとソ連の関係を指す。
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概要編集

 20世紀、具体的には第二次世界大戦終結の1945年からマルタ会談の行われた1989年(あるいはソビエト連邦崩壊91年)までの、半世紀近く続いたアメリカ合衆国およびソビエト社会主義共和国連邦を主軸とした世界構造の時代


 アメリカを中心とする資本主義民主主義西側陣営(資本サイド)と、ソ連を中心とする共産主義社会主義東側陣営(社会サイド)の対立構造が基本。米ソのみで見ると「米ソ冷戦」、世界全体を二極で分けると「東西冷戦」と表現される。


 対立国が軍事力で直接戦う「熱戦」の対義語として作られ、40年代半ばには使われるようになった。この言葉はジョージ・オーウェルジェームズ・バーナム(アメリカの思想家、当初トロツキズムに傾倒したが、のちに反共主義に転向した人物、日本では経営者革命論で知られる)の理論を評した時に使用し、バーナード・バルーク(アメリカの投資家および政治家、第二次世界大戦の際強力な物資統制を行う戦時製品監督局を提案したことなどが有名である)、ウォルター・リップマン(ジャーナリスト、政治評論家ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンに掲載されたToday and Tomorrowというコラムで有名)が1947年に著した『冷戦―合衆国の外交政策研究(The Cold War: A Study in U. S. Foreign Policy,)』に使用されたことから、この表現は世界的に広まっていった。


 核兵器が出現したことにより、安易全面戦争世界の滅亡を招く恐れを持ったため、直接の戦いは避ける動きが冷戦を生む根底のひとつとなった。


 それぞれの陣営から人々の交流制限されていくことで対立は外交経済軍事だけでなく、スポーツ文化科学技術などにも多大な影響をもたらした。


 ただし東寄りでありながら資本主義を維持したフィンランドや、アメリカから援助を受ける反ソ連派の共産主義勢力もいたりと、なかなかに複雑怪奇な対立構造であった。


歴史編集

初期編集

 第二次世界大戦時、ソ連は主義主張は異なるものの連合国としてファシズム=ナチス・ドイツを共通の敵とした「呉越同舟」であり、対立は決定づけられていたとも言える。大戦末期のヤルタ会談から米英ソの思惑が見え出し、戦後イデオロギー対立が表面化することになった。大戦が終結し、チャーチルは新たな陣営が形成され交流が制限されていく状況を「鉄のカーテン」と表現した。


 戦争で疲弊した世界各地に共産国家が拡大し、1949年に中国では、毛沢東率いる中国共産党蒋介石率いる中国国民党を打ち破り、毛沢東によって中華人民共和国が成立。またドイツ西に、朝鮮ベトナムは南北に分断され、各々で東西両陣営として対立状態に陥り、1950年には朝鮮戦争が勃発。両陣営による代理戦争民族分断の悲劇を生んだ。


対立の複雑化編集

 1953年にソ連でスターリンが亡くなり、次期指導者フルシチョフは個人崇拝を否定する「スターリン批判」を行い、西側との関係改善を図ろうとし、冷戦の「雪解け」が期待された。


 一方東側陣営も一枚岩ではなく、チトー率いるユーゴスラビアはかねてから対立しており、さらにスターリン批判によって毛沢東率いる中華人民共和国、エンベル・ホッジャ率いるアルバニアなどとの方針不一致が起こり、中ソ対立などの対立状態が続くことになる。また、北朝鮮ルーマニアも東側共産国家でありながら、ソ連と距離を置く独自路線を進めた。


 またソ連はスターリン批判をうけて急激な民主化を図ろうとする東側国家に軍事介入し、ハンガリーチェコスロバキアへ侵攻した。またベルリンにはベルリンの壁を構築している。両陣営でNATOやワルシャワ機構などの軍事同盟も作られ、雪解けは振り出しに戻った。


 さらに東西どちらにも属さない第三世界、例を挙げればインド中南米の台頭で、二極対立から多極化の傾向が起きた。中東では東西両陣営双方に与しないイスラム教思想が強まり、イランでイスラム革命が起こった。


 米ソはロケット開発と共に核兵器開発競争が激しくなり、両陣営が戦争に陥って第三次世界大戦になれば「核戦争」となる危険性を孕むことになった。


 1962年にキューバ危機が起こり、両陣営の臨界点は限界に極まり、事態回避後に米ソはホットライン、すなわち直接対話を行う装置を構築するに至った。


 1960年頃からベトナム戦争が始まり、東西両陣営がこぞって各勢力を各々支援する一方、反ソで共闘した米中が国交正常化で接近。ベトナム戦争が終わるとソ連はアフガニスタンに侵攻するが、アフガニスタンに米中が武器供与を行いソ連は泥沼にはまることになる。


末期編集

 1980年代になると東側の経済状況は年々悪化。物不足と品質の低さに悩まされていた。


 1980年代、中国では鄧小平の改革・開放政策を実施し急激な経済成長が始まる。後にベトナムでもドイモイ政策(刷新)など、市場経済導入が進められることになる。


 対して経済改革に失敗した東欧各国で経済の行き詰まりが広がり、西側の新自由主義に触発され、ソ連ではゴルバチョフペレストロイカ再構築政策、社会主義体制の枠内での改革を志向したものであった)が実施される。これによって東欧諸国が次々と民主化運動を起こして東欧革命が広がり、ベルリンの壁も崩壊した。


 アジアでは逆に西側陣営であった韓国、台湾、フィリピンなどで経済成長による市民社会の誕生に政権側が耐えきれず民主化運動が勃発し、最終的に民主化。また改革開放以来の経済成長をしていた中国でも民主化デモが起こったがこれは武力鎮圧された(天安門事件)。


 ゴルバチョフは西側との融和姿勢を強めた。1989年12月に行われたマルタ会談で米ソは東西冷戦終結を宣言。91年のソ連崩壊で米ソ冷戦は完全に終結した。


日本の状況編集

 日本国は1952年、サンフランシスコ講和条約にて独立を復活させたが、ソ連は会議には出席したが条約には批准せず、また中国中華民国は参加せず、中華人民共和国は参加資格はなかったため、事実上西側陣営としての独立国家となった。経済復興から経済大国へと邁進した日本だったが、周りを見渡すと、の共産圏とは隣り合わせで、朝鮮台湾ベトナム (1952年はインドシナ戦争真っ只中である)などの東西の対立地域とは目と鼻の先、という地理的に重要な地域で、米軍基地(特に沖縄県)が多数設置された。


 この時代の日本は55年体制にあたる。言論の自由を保ちつつも台風の目として巻き込まれるのを避け、徴兵も行われず(敗戦国でも当時の東西独・伊は徴兵実施)、経済発展を続けた。冷戦終結と同時期にバブル崩壊を迎えたこともあり、日本人にとってはネガティブなイメージよりはノスタルジーの対象となる時代である。


終結後編集

 諸民族を力づくで封じていた冷戦論理の消滅により、各地の宗教民族紛争が顕在化、21世紀9.11に始まる対テロ戦争へとつながった。またアジアでは民主化が頓挫した地域が多く冷戦構造が一部残されている。


 さらに21世紀に入ってからは、の間で対立関係が露わになり、「新冷戦」と称される混沌とした状況になっている。しかしこれは世界を敵味方で二分して分裂していたのとは違い、対立しながらも経済交流が盛んであるなど、旧冷戦以上に複雑な構図となっている。


詳細編集

関連国編集

フィクションにおける影響編集

 冷戦下における世界戦争危機感などは様々なフィクションにも反映され、小説(特に架空戦記)、映画漫画アニメなど多種多様な物語作品にも冷戦や東西対立などを背景にした設定が組み込まれた。

 有名な例としては手塚治虫はいち早く漫画『来るべき世界』で破滅まで戦いを止めない二大国を描き、「ガルフォース地球章」も東西対立を背景とした設定がある。007シリーズも永らく冷戦の裏側を舞台としてきた。

関連タグ編集

歴史 時代 戦争 世界史

インドシナ戦争 朝鮮戦争 キューバ危機 ベトナム戦争 ベルリンの壁 アフガニスタン紛争 MiG25事件ーベレンコ中尉亡命事件 大韓航空機撃墜事件 ダッカ事件

米ソ冷戦 米中冷戦


参照編集

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