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ユーゴスラビア

ゆーごすらびあ

東ヨーロッパにかつて存在した国家
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概要

第一次世界大戦後の1929年東欧バルカン半島に成立した多民族国家
初期の正式名称は、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人(セルブ・クロアート・スロベーン)王国であったが、後に海外からの呼称であったユーゴスラビアへ正式に改称した。
王国、連邦人民共和国、連邦共和国と変化してきた。首都はベオグラード。

歴史

王国先史

ここではバルカン半島の近世から語る。オスマン帝国は18世紀末のロシア帝国の南下に伴う露土戦争の相次ぐ敗北により、衰退が進んだ。こうした中で19世紀初頭、第1次セルビア蜂起によってバルカン半島のセルビア地域がセルビア公国として認められたことから事実上のユーゴスラビアの歴史は始まる。
自治公国の地位を確立したとは言え、その時点では未だオスマン帝国支配下にあったものの、徐々に民族主義を自立させていったセルビアは、第十一次露土戦争にオスマン帝国が敗北したことで、1882年のベルリン条約を経てついに独立を獲得し、セルビア王国に昇格した。

セルビア王国

セルビア王国承認のため、非協力的なロシア帝国より、ボスニア地域などを統治していたオーストリア=ハンガリー帝国に接近し、同国の承認を持ってセルビア王国は成立した。1885年には東ルメリ自治州の併合問題を巡ってブルガリアと開戦するも、これに敗れて翌年ブカレスト条約を結んだ。

セルビア蜂起時代の二人の英雄からそれぞれセルビア公・セルビア王に就く子孫が産まれ、同国には二つの王家が存在した。王国昇格時代の王家はオブレノヴィチ家であったが、1903年に陸軍士官らにより王宮でアレクサンダル1世と同妃の夫妻が殺害された5月クーデターにより断絶した。これにより王位はもう一つの王家、カラジョルジェヴィチ家に移り、ペータル1世が即位。同家が後のユーゴスラビア王家となる。
するとオーストリアを重視する政策を改め、周辺国やロシアとの友好を重視する政策に転換し、オーストリアとの関係性は悪化していった。また1908年に青年トルコ革命が勃発するとオーストリアは1878年以来実効統治していたボスニア・ヘルツェゴビナを完全併合した。このことはセルビアとオーストリアの関係を一挙に悪化させた。
一方、オスマン帝国に対してはブルガリア・セルビア・モンテネグロ(ツェティニェの主教公統治領から始まる)・ギリシャ王国のバルカン同盟を結成し、第1次バルカン戦争を仕掛けて勝利。ロンドン条約でマケドニアを得て、モンテネグロ以外の三国がこれを分割した。ところがマケドニアの分配をめぐって三国の思惑が紛糾し、オスマン帝国・ルーマニアとブルガリア以外の三国でブルガリアに宣戦し、第2次バルカン戦争となった。これにも勝利し、セルビアはバルカン半島の覇権をうかがうようになる。

1914年にはオーストリア=ハンガリー帝国皇太子がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォでボスニア系セルビア人の青年に暗殺されるサラエヴォ事件が発生、同年7月28日オーストリアがセルビアに宣戦し、第一次世界大戦がはじまった。セルビアは同盟国に徹底的敗北を喫し、一時は滅亡の危機に追い込まれるが、1917年アメリカ合衆国が連合国側に参戦したことで、最終的には戦勝国となった。

1918年、敗戦により解体したオーストリア=ハンガリー帝国から分離(正式には1919年のサン=ジェルマン条約により確定)したクロアチア・スロベニア・ボスニア・ヘルツェゴビナの3地域を獲得。これに加えてモンテネグロ王国と合同して、セルビア王国はユーゴスラビアの母体であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)を形成することで発展的に解消した。なお、王室は前述の通りカラジョルジェヴィチ家となった。

ユーゴスラビア王国

ユーゴスラビアとは「南スラブ人の国」と言う意であり、オスマン帝国の支配下の元バラバラの民族で暮らしていたバルカン半島西部の最終的な統一を目指したものであった。当初ユーゴスラビアの名はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の俗称として使われている。
前述の地域と、既にセルビアが支配していたコソボ・マケドニア北西部を含めて王国は運営された。しかしセルビア人の支配に対しそれ以外の民族との対立が続き、1929年当時の王アレクサンダル1世による専制国家となり、ここで初めてユーゴスラビア王国に改名した。
しかし強権的な国王の治世に不満は高まり、1934年にアレクサンダル1世は暗殺された。これによりまだ10歳だった長男のペータル1世が即位(父の従弟が摂政)、これにより多少はセルビア人以外にも寛容的になったという。
しかし摂政パヴレは宮中の反対にも関わらずナチスに接近し、第二次世界大戦中に侵略を受けて実質上のナチスの傀儡国家となった。一方でイギリスらによるユーゴスラビア解体、クロアチア独立国の建国などがなされる。この時クロアチアの民族主義者団体ウスタシャによるセルビア人虐殺が発生した。これはセルビア人民族主義者チェトニクの結成とクロアチア人への報復にもつながり、当時よりセルビアとクロアチアの仲の悪さが伺えた。
今一つユーゴ奪回を主導出来ない王室やその周辺に対し、ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito)などによる主導のパルチザンが独立を回復し、ナチスを排したことで、戦後のユーゴスラビアはパルチザンとチトー主導の国家となる。

ユーゴスラビア連邦人民共和国

戦後はチトーを指導者とする社会主義連邦共和国となり、東側陣営の下に入るが、冷戦には東側の中心国家であったソ連に与せず(これ以前にチトーを疎ましがっていたスターリンの策略でコミンフォルムから追放されたのも一つの理由である)、外交上中立的な立場を通し、インドガーナなどの非同盟国家にも積極的に支援した。
ユーゴスラビアを表す言葉として、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字からなる一つの国家」という言葉が存在する。六つの共和国とはセルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナのことであり、セルビアの自治州とされたコソボ、ヴォイヴォディナは含めない。
チトーが死去した後は国家間のまとまりを少しずつ失い始め、更にそれに追い打ちをかけるように、スロボダン・ミロシェビッチ(Slobodan Milošević)政権成立後に始まったセルビア人第一主義的政策が連邦内の他民族の反発を招くことになった。
その結果として、1991年頃からクロアチアスロベニアマケドニアボスニア・ヘルツェゴビナイスラム教徒)などが激しい民族紛争を経て独立し、かつての巨大国家の体は失われた。
セルビアを中心に残った地域が共産主義的要素を排した上でユーゴスラビアを名乗っていた(新ユーゴ)が、1998年コソボ独立を武力鎮圧しようとして米軍NATOの介入を招いて国際紛争となり、ユーゴスラビアは完全に崩壊した。

その後

2003年に緩やかな連邦国家となるセルビア・モンテネグロに改称したが、民族主義の高揚を制止することはできず、2006年にはセルビアモンテネグロに分かれた。その後コソボも事実上独立しているが、セルビアはこれは認めていない(国連安保理常任理事国のロシアも認めていないので、コソボは国連にオブザーバーとして加盟している)。

スロベニアなどが比較的穏健に独立出来た一方、欧州大陸大国やNATOの全面支援を受けつつかつてのセルビアと大して変わらない過激な民族浄化による大クロアチア主義を掲げたクロアチアとの紛争は各地で続き、未だにクロアチア人とセルビア人の混ざる各国でのしこりが残っている。
特にボスニア人(ムスリム人)が混ざるボスニア・ヘルツェゴビナでは各国でも特に悲惨な紛争が発生した。現在ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人主体のスルプスカ共和国とボスニア人・クロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の連合国家となっている。
一般に紛争は一民族・一団体のみが悪者ではないのだが、そういう悪者が一つに押し付けられがちである。一連のユーゴスラビア紛争ではそれがセルビアである場合が多いのだが、実際の戦争の場ではクロアチア人、更にはボスニア人もセルビア人に負けず劣らずの残虐行為を加えていたのも歴史的事実である。
そもそもオスマン・ロシア・オーストリアやそれ以前のローマ帝国時代から長く被支配を受け、常に戦場として「欧州の火薬庫」とまで言われたバルカン半島では、独立と領土拡大、民族主義といった精神を渇望する傾向が続いた。こうした中で近世にようやく独立を迎えたのだが、強権的なカリスマ亡き後は民族主義の台頭に歯止めがかからず、今日のような状態を生み出している。

関連タグ

オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク家) オスマン帝国
兵庫県 - 元々摂津や播磨などバラバラだった地域を一つの県としてまとめあげた辺りがユーゴスラビアとの類似性を指摘され「ヒョーゴスラビア」と呼ばれることがある。同名のアプリなども存在。

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