概要
本名はヨシップ・ブロズで、チトー(ティトー)という名前は1934年にユーゴスラビア共産党の幹部となってから名乗るようになった偽名である。
チトーというのは「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という適当な文章から名付けられたもので、当時からネタにされることが多かった。
生涯
誕生から
チトーはオーストリア=ハンガリー帝国の構成国であった現クロアチアで生まれ、少年時代を母方の曾祖父の元で過ごしてから1905年に小学校を卒業した。
1907年に錠前屋の見習いとして働き始め、その時に労働運動に興味を持つ。
1910年からは冶金工の組合に加入。1911年から1913年まで国内を転々としながら働いた。
従軍、共産主義への開花
1913年、徴兵され兵役に就くと第一次世界大戦が起きる。そこで反戦的な宣伝を流したため逮捕された。
1915年にはロシア軍との戦いで重傷を負って捕虜となってしまった。
捕虜となって数ヶ月ほど療養したが1916年にウラル山脈の労働収容所に送られ、1917年に戦争捕虜たちのデモを組織したとされ、再び逮捕されてしまったが後に脱走。
同年に発生したサンクトペテルブルクのデモに参加後はフィンランドまで逃げたものの捕縛された。
だが護送列車に乗った際にまたも脱走、同年冬にシベリアの赤軍に参加。
そして翌年の春にロシア革命の指導者レーニンが率いるロシア共産党へ参加する。
第二次世界大戦
1920年、祖国へ帰国したチトーはユーゴスラビア共産党に入るが、またもや逮捕され5年ほど投獄されてしまった。
1934年に同党の最高幹部(政治局員)となったチトーはコミンテルンで働くと(この頃に「チトー」という名前を使い始めたとされる)、その2年後に起きたスペイン内戦に従軍する。1941年にナチスドイツがユーゴスラビアへ侵攻するとパルチザン指導者(ユーゴスラビア解放軍最高司令)としてナチスと戦い、その時の同盟相手でもあったソ連のスターリンに接近するのであった。
民族主義、反共主義の立場をとるユーゴスラビアの政治運動家達の多くがナチスに接近する中(セルビア人中心の軍事組織チェトニク、クロアチア人中心の民族主義組織ウスタシャなどは大戦中にナチスと組んで、他民族の排除に励んでいた)一貫してナチスへの抗戦とその協力者達の打倒の立場をとったチトー及び彼が率いるパルチザンはやがて大きな支持を得るようになり、連合国からも支援を得たことでユーゴスラビア解放戦争(バルカン半島戦線)を優位に戦う事が可能になった。大戦末期にはナチス及びその協力勢力を自軍でユーゴスラビアから駆逐するまでの精強な組織となっていた。
戦後
第二次世界大戦が終結し、解放されたユーゴスラビアは「ユーゴスラビア連邦人民共和国」として独立を果たし、スターリン主義に進んでいたが改革が徹底していたため周辺諸国にその影響を与え、これを恐れたスターリンは1948年にユーゴスラビアをコミンフォルムから除名、ソ連との関係も次第に悪化したユーゴスラビアはソ連とは異なる独自路線を歩む事となる。
戦後、首相の座にあったチトーは1953年にユーゴスラビア大統領となった。
この体制を快く思わぬスターリンはチトーの暗殺またはユーゴスラビアでの政府転覆を狙って刺客を送り込んだが、それに対して結成していた秘密警察で送り込まれたソ連からの刺客を全て始末し、底力を見せ付けた。
逆にチトーはスターリンに対して「こっちからモスクワに刺客を送るぞ」と脅しをかけてスターリンを黙らせた。
これにスターリンはチトーを排除した上でのユーゴスラビアの支配化を諦めざるを得なかった。
その後、チトーは演説で「工場を労働者に」という演説に「労働者にとってただ一つの(資本主義国との)違いはソ連では失業が無い、ただそれだけである」と発言。
冷戦下となった世界でソ連からも見放されたユーゴスラビアはアメリカやイギリスといった西側諸国に接近して関係を深め、共産主義でありながらも西側諸国と関係を深めるチトーの考えは『チトー主義』と呼ばれ、ソ連などの共産主義国ではチトー主義者は粛清対象とされた。
内政でも優れたカリスマ性を武器に複雑だった各共和国および民族同士の関係やバランスを保ち、連邦制の維持に注いだ。
ユーゴスラビアで一党独裁を敷いたものの、新聞での政治不満や批判、言論の自由などはある程度認めるという寛大なものであった一方、民族主義者に対しては秘密警察による監視と徹底した取り締まりを行った。
己の体制批判は認めるが民族主義は徹底的に排除されるという、限定的だが「言論の自由」を保障された社会主義国家体制をチトーは築いていたのである。
このような制度では、それまで支配的な立場にあったセルビア人の権限を一方的に制限するような措置であったことから反発を招いた(一応、チトー政権中でも一貫してユーゴスラビアにおける政治的・経済的な中心民族としての地位は維持した)が、逆らう者は例によって弾圧で黙らされ、逆に悲願だった自治権の獲得を達成した少数民族からは大きな支持を得た。
1963年には国号を「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称し、同年には終身大統領となるなど自らの独裁体制を敷いていた。
しかしそんなカリスマにも寿命は訪れていた。
1980年に循環障害を患った際、壊疽状態となった左足を切断するという手術を受けるが病状は悪化。肺炎や心不全なども患い、同年の5月4日に入院していたスロベニア・リュブリャナの病院で死去。4日後に国葬を以て葬られた。この国葬には日本を含む多数の国から、かつてない規模で、東西陣営や非同盟陣営の世界126か国の208人の政府要人が集まった。これは、1989年の昭和天皇の大喪の礼まで当時史上最大の国葬であった。
死後
チトー亡き後、カリスマのいないユーゴスラビアの国家体制は徐々に衰退していった。
その「自由」は多民族国家であるユーゴスラビア国内でそれぞれの民族が分離および対立を深めていき(前述の経緯からチトー体制のもとで多数派として振る舞えないことへの不満からセルビア人から「セルビア第一主義」をとる政治家が台頭するようになり、これが他民族の反発と反セルビア色の強い民族主義を呼ぶという悪循環に陥った)、冷戦終結後の1990年代から2000年代にかけて足掛け約10年に及ぶユーゴスラビア紛争が勃発。ユーゴスラビア連邦に加盟していた各共和国が独立しようとし、それを阻止しようとするセルビア主体の連邦軍との間でボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争やコソボ紛争などが巻き起こる。最終的にセルビアとモンテネグロを除いてユーゴスラビア連邦に加盟していた各共和国は独立し、残った2ヶ国は「ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)」を形成したが、最終的に新ユーゴも2003年により緩やかな国家連合である「セルビア・モンテネグロ」へと移行し、それすらも2006年に解消された。
こうして、チトーが築き上げたユーゴスラビア連邦は、血生臭い紛争を経てここに完全崩壊したのであった。対立するソ連の軍事介入を警戒したチトーは第二次大戦での勝利という成功例に基づき国民皆兵的な民兵組織を充足させる政策をとっていたが、これはユーゴスラビア紛争を極めて暴力的かつ血生臭いものにするという皮肉かつ悲惨な結果を招いた。
人物
「欧州の火薬庫」ともいえるバルカン半島では民族対立や宗教対立などが終始絶えなかったが、優れた統率力でそれを押さえ込み、40年に渡る平和を実現した指導者として名高い。
差別主義や民族主義といったものを嫌う博愛主義者であったが、一方でユーゴの統治や経済政策には強権のもと現実路線を貫き、排他主義者を粛清するなど良くも悪くも独裁者然としていた。
チトーの独裁がおおむね許容されたのは、彼自身の絶大なカリスマもさることながら、差別を憎みユーゴの平和を重んじるバランスの取れた姿勢にあったと言える。
熱心な社会主義者であったが、チトーは社会主義の目指す「差別や貧富の差の無い世界」を重要視していたため、他の独裁者にありがちな国民への理不尽な弾圧や世間ズレした価値観の押しつけといった愚挙とは無縁であった。言論の自由をある程度認めていたことから分かるように、主義主張に凝り固まった人物では無く、幅広い意見を聞き入れられる器の持ち主であった。
彼の数少ない汚点の一つは自身の後継者を育てる事が出来なかったということ。これに尽きるだろう。
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