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概要編集

バルカン半島に位置する国家。旧ユーゴスラビア構成国の一つ。

首都ベオグラードユーゴスラビア時代からの首都である。

2006年にセルビアとモンテネグロが分離独立し1918年以来88年ぶりに独立した。

セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州コソボ共和国として事実上独立状態にある。


歴史編集

ロシアンボンバ一週間まとめ

↑詳しくは同志ハラショー氏のこの漫画で。


セルビア王国編集

7世紀初めころにバルカンに移住し、その西部に広く定住した。8世紀からビザンツ帝国が南部を支配し、ギリシア正教の信仰が広がる。東側のブルガリア王国、南のビザンツ帝国に圧迫され、一時ブルガリアに併合される。

11世紀ごろから民族統一を進めてビザンツ帝国に抵抗するようになり、1168年にはマネーニャ王のときに独立を達成。アドリア海沿岸に及ぶ広範囲の王国を築いた。その間、ビザンツ帝国を牽制するためとローマ=カトリック教会にも接近、セルビアでは両方の布教が行われたが、13世紀にはギリシア正教の方が有力となった。

セルビア王国にはついで1331年にステファン=ドゥシャン王(在位1331~55年)が現れ、領土を南方のギリシアに拡大、一時はコンスタンティノープル攻略を計画、セルビア王国の最盛期となった。銀や鉄などの資源に恵まれ、周辺諸国と交易を行い、ビザンツ法に倣った法典を整備したこの王の時代には中世セルビア文化が開花した


オスマン支配・コソボの戦い編集

ステファン=ドゥシャン王が南下してビザンツ帝国を脅かしていた頃、バルカン半島には小アジアからオスマン帝国が急速に進出してきていた。オスマン帝国のムラト1世はアドリアノープルを攻略、1366年に新首都エディルネとして、さらに北方に進出、1371年にはブルガリア王国のシュシュマン王の軍を破り、バルカンにさらに勢力を及ぼした。

そのころセルビア王国はドゥシャン王の死後、分裂したために衰退していたが、ボスニア王国、ブルガリアなどと連合して、1389年にコソボの戦いでオスマン帝国軍と戦った。しかし、この戦いでスラブ系キリスト教国連合は敗れ、セルビア王国も滅亡した。その後はオスマン帝国の支配を受けることになり、住民の一部にもイスラム化が進んだ。

コソボは現在アルバニア人の居住地となっており、セルビアから分離独立したが、セルビアにとっては祖国の歴史上、手放すことのできない土地と言うことでその独立を認めていない。コソボの戦いで倒れた国王や武将は、民族的な英雄として現在まで口承の叙事詩として伝えられている。

オスマン帝国はバルカン半島を支配するに当たって、宗教的には寛容であったので、16世紀にはギリシア正教とは別にセルビア正教会が成立し、民族的な拠り処となった。一方キリスト教徒の子弟をデウシルメによって徴発し、スルタンの親衛隊であるイェニチェリを編成すると言うことも行われた。


民族覚醒編集

フランス革命ナポレオンの登場はバルカンの地にも民族主義と自由主義の影響を及ぼすこととなった。

1804~13年の第一次セルビア蜂起は、豚を扱う商人・カラジョルジェを指導者として、オスマン帝国政府の統制を離れて傭兵集団と化したイエニチェリの圧政に対する反乱として始まった。しかし蜂起がセルビア全土に拡大するにつれ、オスマン帝国の軍隊と衝突せざるをえなくなった。セルビア人はロシアの支援を期待して戦ったが、ナポレオン戦争が終結するとオスマン帝国が態勢を立て直し完全に鎮圧されてしまったが、この蜂起はセルビア人の民族意識を強め、「近代的な民族」としてのセルビア人が生み出されたとされる。

1815年から同じく豚を扱う商人のミロシュ=オブレノヴィチが指導者として第二次セルビア蜂起が起こり、独立ではなく自治の獲得という現実的な方針を採り、長期にわたる交渉によって、1830年に自治を獲得し、「セルビア公国」となった。セルビア公国は巧みな外交で列国の支持を取り付けることに成功した。

セルビアの独立運動は同じスラヴ民族で、パン=スラヴ主義をとるロシアが支援し、それに対してオスマン帝国と同じように帝国内でスラヴ系の民族を支配しているオーストリアはスラヴ系民族の独立を抑えながらゲルマン人のバルカン進出を図ろうとして、いわゆる東方問題が起こる。


バルカン問題編集

1877年に露土戦争が起きるとセルビアはロシアを支援、戦後に開催されたベルリン会議で1878年に締結されたベルリン条約によって、正式に独立した。このときの人口は170万、同時に独立したモンテネグロ公国は20万であった。1882年にセルビア公国は王政を宣言して「セルビア王国」(これを近代セルビア王国という)となったが、急速な近代化を図ると共に近隣諸国との軍拡を競うこととなった。特にボスニア=ヘルツェゴビナの行政権を獲得したオーストリア=ハンガリー帝国の進出に対しては神経をとがらせるが、同時にその動きは大セルビア主義ともとられ、近隣諸国が警戒するところとなり、バルカン問題に発展していく。

1903年にそのアレクサンダル1世が親オーストリアの立場を採ったため、それに反対する軍人がクーデタを起こして国王を暗殺。かわって親ロシアのカラジョルジェヴィチ朝ぺータルが即し、南スラヴ統一の推進を明確にした。

オスマン帝国の青年トルコ革命の混乱に乗じ、1908年、オーストリア帝国がボスニア=ヘルツェゴビナを併合すると、その地には多数のセルビア人が住んでいたので、セルビア王国などスラヴ系民族は強く反発した。スラヴ系民族の中にはセルビアを中心にスラヴ人の統一国家を作ることを主張する大セルビア主義が強くなり、オーストリアのパン=ゲルマン主義と鋭く対立するようになった。

1912年にはロシアの仲介でブルガリア、ギリシア、モンテネグロとそれぞれ二国間同盟を結び、バルカン同盟を作りあげた。ちょうどそのときオスマン帝国はイタリアとの戦争に直面していたので、同1912年10月、セルビアなどバルカン同盟諸国はオスマン帝国に宣戦布告して第1次バルカン戦争となった。この戦争で敗れたオスマン帝国はバルカン半島の大部分の領土を放棄した。

オスマン帝国がバルカン半島から撤退すると、民族解放が遅れ真空地帯になっていたマケドニアに対するバルカン同盟諸国の領土的野心が衝突して、翌1913年、ブルガリア軍がセルビアとギリシアに侵入し第2次バルカン戦争となった。ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、ルーマニアが参戦したためブルガリアは孤立して、その占領地を放棄し、縮小されることで決着がついた。この勝利によってセルビア王国はコソボとマケドニアを領有し、南スラヴ解放の旗手としての地位を不動のもとした。


第一次世界大戦編集

1914年6月、セルビア人青年がオーストリア帝国の皇位継承者を暗殺したサラエボ事件が起きると、オーストリアは背後にセルビア王国の指示があるとして宣戦布告し、セルビア王国は隣国のモンテネグロ王国とともにイギリスフランス、ロシアの三国協商諸国の支援を受ける見通しを得て同じく宣戦布告、バルカンの一角で戦闘が始まった。それが契機となり列強が次々と参戦、第一次世界大戦に突入した。

第一次世界大戦で連合国軍の勝利が見通せるようになると、コルフ島に避難していたセルビア政府は南スラヴ民族の統一を検討していたユーゴスラヴィア委員会と協同して、1917年7月、コルフ島で14カ条からなる「コルフ宣言」を発表、そこでセルビア王国のカラジョルジェヴィチ王朝のもとで、セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人を統一した立憲君主国を建国することを宣言した。

大戦はイギリス・フランス連合軍がギリシアのサロニカに上陸してバルカンを北上、1918年9月にセルビア軍は英仏軍ととともにブルガリア軍に勝利し、9月30日に停戦となった。しかし、第一次世界大戦でのセルビアを含む南スラヴ地域にとってはその犠牲が多く、死者は190万(第二次大戦時のユーゴスラビアの死者は170万)にのぼっている。

1918年11月に戦争が終わり、オーストリア帝国が崩壊すると、南スラヴ地域は混乱、しかもイタリアがロンドン秘密条約に基づいてダルマチアを占領しようと動くなど、緊迫した情勢になる。国家統一を急がなければならなくなった南スラヴ人各組織は、コルフ宣言の線で結束することとなり、12月1日、セルビア王国の摂政アレクサンダル公は「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国を意味する)の建国宣言を行った。

このセルブ=クロアート=スロヴェーン王国は、1929年に「南スラヴ」を意味するユーゴスラビア王国に改称した。これを「第一のユーゴ」ともいうが、いくつかの民族、文化、宗教の違いを含む多民族国家であった。


第二次世界大戦編集

第二次世界大戦でユーゴスラビア王国がドイツに侵攻されると、チトーの率いる共産党を主力とするパルチザン闘争によって抵抗を続け、1946年には社会主義を掲げる連邦国家であるユーゴスラビア連邦が成立した。これを「第二のユーゴ」ともいう。チトーは自主管理社会主義と非同盟主義を掲げて、ソ連から距離を置き、民族の対立を克服する独自の社会主義国家建設をめざした。


戦後編集

1970年代に入り、ユーゴスラビア連邦内で民族主義的な暴動が頻発するようになり、苦慮したチトーら指導部は、1974年憲法を制定し共和国の主権を拡大。セルビア共和国内の自治州の権限も共和国並みに引き上げることとした。その結果、コソボ州ではアルバニア人が勢力を増し、セルビア人やモンテネグロ人を迫害するケースが出てきて、州外に逃れる人々が増えた。それをうけてセルビア人の中にコソボの自治権を制限せよとの声が強くなり、そのような民族主義の高揚の中から強硬姿勢をとる共産主義者同盟のミロシェヴィッチ政権が誕生した。

民族間の対立はまずセルビア共和国のコソボ自治州で始まったがミロシェヴィッチは力でその要求を抑えつけた。1990年の各共和国における自由選挙の実施の際でも、セルビアではミロシェヴィッチ率いる共産主義者同盟が多数を占めた。


ユーゴ解体編集

チトーの死後全てが激変。1991年、経済先進地域であったスロベニアとクロアチアが独立を宣言、さらにすると、セルビアはモンテネグロとともに連邦制の維持を主張して独立を認めず、ユーゴスラビア内戦が始まった。さらに92年までにマケドニアとボスニア=ヘルツェゴビナが独立を宣言、ユーゴスラビアの解体が進行した。

セルビアは、クロアチア内のセルビア人勢力、ボスニアのセルビア人勢力を支援し、内戦を激化させた。1992年セルビアは民族的に近いモンテネグロと新ユーゴスラビア連邦を作って対抗した。

特にボスニア内戦ではセルビア人勢力による民族浄化と称する非人道的な行為が国際的に非難され、1995年にNATO軍の空爆を受け停戦を受け入れた。


近況編集

コソボ自治州の独立をめぐるコソボ問題は長い国際的な調停作業があったが結局合意に達せず、2008年にコソボ共和国として独立を宣言

しかし、セルビアは独立を承認せず現在でもにらみ合いの状態が続いている。また、コソボ共和国は西欧諸国のほとんどから承認されているが、ロシア・中国インドブラジルなどはセルビアを支持し、コソボを承認していない。


メディアではセルビアが悪のように描かれることが多い。しかし、セルビアもまた列強に振り回された存在であることを忘れないでいて欲しい。


文化編集

公用語はセルビア語クロアチア語ボスニア語とほとんど同じ言語であり、かつては「セルボ=クロアチア語」と呼ばれていたが、ユーゴスラビア解体後政治的都合により区別されるようになった。文字はキリル文字を主に用いるが、クロアチア語と同様のラテン文字表記も用いられる。


セルビアはバスケ強豪国である。イタリアに行ったセルビア人たちがそこでバスケを学び、祖国に伝えたとされる。またバレーも強い。


渡航編集

日本国籍者は90日以内の短期滞在であれば査証は免除。ただし、最初に入国してから180日間のうち入国した日から合計90日以内。

日本の外務省はコソボ国境の危険情報は解除されたが、首都ベオグラードを中心にバスなどの公共交通機関内や観光地でスリが多発しているため注意とのこと。


著名な人物編集

エジソンと対立した発明家。テスラコイルを発明した。セルビア人人気ランキング一位である。


関連キャラクター編集


関連タグ編集

他の旧ユーゴスラビア構成国編集


正教 イスラム教 キリスト教

スラブ人 バルカン

民族問題 ナショナリズム


  • チトー
  • 坂口尚『石の花』⋯ユーゴスラビアを描いた作品。

別名・表記揺れ編集

Serbia


参考資料編集

  • 世界史の窓

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