概要
フランス語表記はRévolution française。
フランスで起こった市民革命で、フランスの社会を根底から変革させ、全ヨーロッパに影響を及ぼした世界史に於ける一大事変である。
それまでの国王や貴族中心の政治や社会の仕組み(絶対王政)を人間はすべて平等であるという理念をもとに、民衆が政治に参加出来るように改められた。
しかし、派閥抗争で過激派のジャコバン派が主導権を握ると後の共産主義やナチズムにも似た全体主義化が顕著となる。粛清が横行し、ギロチン処刑で数千人の命が失われた。
期間
1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃に始まり、ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終焉したとされる。
(ただし、革命やクーデターは第三共和政が成立する1870年まで頻繁に繰り返されるので注意。)
フランス革命から現代まで
発端
フランス革命の発端となったのは当時のフランスの財政難を打開するために開かれた意見交換会である全国三部会である。これは旧体制(アンシャンレジーム)において定められていた身分制度、第一(聖職者)・第二(貴族)・第三(平民)身分の者達が一堂に会して議論を行うという、表向きは画期的な催しであった。しかし、実際は圧倒的多数であるはずの第三身分の議員の主張は一切通らず、第一・第二身分の議員に都合の良いように仕組みが出来ていた。結果愛想を尽かした第三身分の議員達は新たな議会である「国民議会」を開いて独立。開明的な第一・第二身分の議員達も参加したことで勢力はふくれあがり、危機感を覚えた王族側が圧力をかけたことで一触即発の状態になってしまう。その最中、民衆に人気のあった政治家ジャック・ネッケルが罷免されたことでフランス国民の怒りが爆発。バスティーユ牢獄に民衆が襲撃をかけた「バスティーユ襲撃」を契機にフランス革命の火蓋が切られた。
旧体制の崩壊
革命により、王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊、封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立した。フランス革命が生んだ理念(自由・平等・友愛)と諸制度は現在のフランス共和国の標語でもあり、現代社会にも影響を残している。
革命派には無神論者・反宗教主義者が多く、教会は徹底的に弾圧された。特権階級となっていた聖職者の中には無理矢理結婚させられ身分を失ったものもいると伝えられる(カトリック教会では司祭の妻帯を禁じており、結婚すると教会から除籍されるため)。
革命が終わったあとも民法、メートル法など革命期に作り出された制度が定着した一方で、宗教の廃止や革命暦は定着せず、ナポレオン時代に元に戻された。
ロベスピエールの恐怖政治
過激派のジャコバン派、マクシミリアン・ロベスピエールは革命政府の中心になると自分に反対するものを次々に処刑し、ジャコバン派だけに権力を集めようとした。
彼の恐怖政治が行われた間、パリだけで約1400名、フランス全体では約2万人が処刑されたと伝えられている。
また、西部のヴァンデや元々フランスと同君連邦を形成していたブルターニュでは王党派や立憲君主派、カトリック教徒の勢力が強く、徴兵反対やカトリック擁護、既存の貴族と比べて過酷な搾取をするブルジョワジーへの反発が起こり、其れに対して革命政府は数十万人規模の死者を出す大虐殺で応えた為に深刻な西部戦争と呼ばれる大内戦に陥ってしまった。
恐怖政治が収束するのは1794年のテルミドールのクーデターでジャコバン派指導者マクシミリアン・ロベスピエールが処刑されてからのことであり、西部戦争の鎮定は最終的にナポレオンによる独裁政権が確立するのを待たなければならなかった。
こうしたことからフランス革命については肯定的な意見とともに否定的な見方も強くある。(無論、現代に生きる我々が何を思おうが「歴史にたらればは無い」のだが。)
フランス革命が現代に受け継がれる近代民主主義を世に広め、旧態依然としたヨーロッパ世界に新風を呼び込んだのは確かだが、当時のフランス社会の実情にまるでそぐわない理念の押しつけや反動勢力に対する弾圧の横行によって数多の人命が無為に失われたのも事実である。
また、絶対王政のもとで暮らしていた民衆にはそもそも政治や民主主義に対する理解が乏しく、選挙が行われても見た目が立派なだけで政治力や行政手腕に乏しい輩が政治家に選ばれることも多く、結果として政治的混乱に拍車をかけることとなった。
もっとも後述するようにこの時代は自然災害の影響による未曾有の凶作と物価高により、「このままでは民は飢えて死ぬ」という危機感により突き動かされていた時代である。
ナポレオンの台頭
皮肉なことだが、フランス革命の精神や理念を最も合理的にヨーロッパに広めたのは革命の主役であるとされた民衆ではなく、革命の混乱のさなか、巧みな軍事的センスにより台頭し、遂には皇帝として玉座に就いたナポレオン・ボナパルトであった。
フランス革命による社会的混乱はクーデターによって政権を簒奪したナポレオンの手腕によって沈静化され、フランスはナポレオンの指導の下に近代化していった。しかし、それは否応なしにフランスがナポレオンの覇道に沿い、ヨーロッパ全土を巻き込んだナポレオン戦争に突入することを意味していた。
この結果、当時ヨーロッパで一番の人口を誇っていたフランスは革命による虐殺とナポレオン戦争によって何百万人もの犠牲者を出すことになってしまった。
ナポレオンの失脚~現代のフランス
ナポレオンもエルバ島に流された後一度はルイ18世を退け復権したが、ワーテルローの戦いで敗れ結局晩年はセント・ヘレナ島で亡くなった。
その後はブルボン家による復古王政も民衆に受け入れられず、ナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンがクーデターで即位、インフラ整備など内政面では成果を出すもビスマルクのプロイセンとの普仏戦争に敗れ、1871年に退位。
現代のフランスは共和制となっている。
フランス革命時代の派閥
革命派
王党派
- 王族・貴族・聖職者(王政維持派。実は現代フランスの元となる第三共和政成立に関わっていたりする。)
- フイヤン派(立憲君主派、当初の革命の中心勢力。いつのまにか王党派扱いされる。1830年の七月革命で再登場。)
革命の原因となった出来事
自然災害
1783年に発生した浅間山の噴火が北半球の気温が年間1.3度低下させ、アイスランドのラキ火山の噴火がヨーロッパ諸国に異常気象をもたらし、食糧価格を高騰させたと伝えられている。
- 遠く離れた日本でも異常気象による不作は1782年から続いており(二つの火山の噴火以外の原因もあると思われるのだが)、「天明の大飢饉」(1782年~1788年)が起こっている。参照・天明の大飢饉(Wikipedia)
身分制度と不公平な税
革命前のフランスの社会は国王のもとに、第一身分(僧、聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(市民・農民などの平民)の三つの身分に別れていたが、
全人口の2%に過ぎない第一・第二身分の人々が国土の40%の土地を所有するとともに、国からは年金が与えられ、税を払わなくてもよい等の特権を持っていた。
第三身分の平民には何の権利も与えられず、特に農民の暮らしは惨めなものであった。
飢えと重税に苦しんだ民衆の怒りは国王、貴族、特権階級となっていた僧に向かったのである。
時代の潮流
上記の身分制度に伴う不公平な税も当初はある程度は歓迎されていた。
貴族同士の喧嘩が燃え広がって内戦が起こるよりは、江戸時代の日本の参勤交代同様に貴族に免税特権を与えた上でベルサイユ宮殿に出仕させた方が庶民の迷惑は少なく、多少の増税のデメリットを補って余りあるものだった。
しかし、国内の内戦が「無いのが当然」と言う常識が定着し、貴族同士の内紛を抑える為の必要経費の重要性も忘れられ、そもそも貴族の軍事力が激減して脅威でもなんでもなくなったので、ベルサイユ出仕に掛かる費用は単なるムダ金になってしまった。
財政難
当時の財政難は、ルイ14世が行っていた欧州・新大陸アメリカでの戦争が直接の原因であり、ルイ15世による放漫財政も大きな一因であった。
ルイ16世は財政難打開のために識者を招き、改革を試みていた。ルイ16世は慎ましい生活を望み公妾も持たなかったが、それがかえって貧困に喘いだ平民の怒りの目が異国オーストリアから嫁いできた華やかで奔放な王妃マリー・アントワネットに集中することとなった。
関連タグ
ルイ16世、マリー・アントワネット:フランス革命により処刑された。
マクシミリアン・ロベスピエール:国王、王妃をはじめ自分に反対するものを次々処刑し、彼自身も反乱を受けギロチンに送られた。彼の恐怖政治は「Terreur(テルール)」と呼ばれ、現在の「テロ」の語源となった。
ジャン・ジャック・ルソー(思想的指導者)