概要
一般にロラン夫人(仏: Madame Roland、1754年3月17日 - 1793年11月8日)と呼ばれるが、ロランというのは夫ジャン=マリー・ロランから来ている。
生誕時の本名はマリー=ジャンヌ・フィリポン(Marie-Jeanne Phlippon)。
マリーとかジャンヌだけでは誰だか区別できないため、ニックネームと夫の姓からマノン・ロランとも呼ばれる。
フランス革命の指導者の1人であり、ジロンド派の中核を担った。
最終的には処刑されるが、フランス史において政治的・歴史的に大きな影響を残した人物である。
人物
若い頃から政治に関心を持つ才色兼備の美少女であった。
彼女自身は政治家になっていない(当時のフランスでは女性は政治家になれない)が、自身のメモを夫に読ませることで間接的に政治に関与した。王政そのものや、ルイ16世やマリー・アントワネットらを痛烈に批判し、フランス革命を主導したため「ジロンド派の女王」とも呼ばれる。
マノンは平民ながら教養に富んでいたという点でアントワネットとは対照的であった。コネを使って王宮にも出入りしたことはあるが、身分の高い者たちの堕落した姿を見て、彼女は革命家になることを決意したという。
彼女は「この世の中では女性は政治に関わってはならないという空気を感じます」と書き残しているものの、「妻たるもの夫に寄り添うべきもの」という当時の価値観を彼女は特に否定していない(むしろそれこそ女性としての貞操だと彼女は考えていた)。この点でも、夫を軽んじて思いっきり政治を私物化していたアントワネットとは対照的である。
フランス革命を進めた人物だが、彼女はあくまで穏健な形での共和制移行を目指しており、暴力的なものは望んではいなかった。革命の名のもとで多くの人々が虐殺されていくのを見て、「わたしはフランスの市民に失望しました。まだこの国に自由と平等は早過ぎました」と嘆き、自身がギロチンに処される直前 Ô Liberté, que de crimes on commet en ton nom ! 「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した。
20歳年上の夫がいたが、他にも同世代の愛人がいた。
(当時、複数の異性関係を持つことは現代ほど背徳的な行為ではない)
生涯
1754年にパリ中心部のシテ島に生まれた。父親は女たらしでギャンブル好きの彫金師であった。庶民階級であったが家は比較的裕福で、マノンは英才教育を受けることができた。少女の頃から政治に関心を持ち、執筆活動に勤しむようになる。
22歳のとき、20歳年上だったロランと交際。4年後に結婚し、ロランは妻の影響で政治家となった。
1792年、夫婦ともにサロンを開いてロベスピエールやブリッソーやビュゾーらと交流を持ち、後にフランス革命を主導した。この頃には夫ロランも内務大臣となり政界の中枢に入っている。
王族の処刑までは望んでいなかったが、王妃アントワネットが国外逃亡をしようとして失敗し逮捕されると、もはや擁護は必要なしと、裁判において王妃を非難した。
1793年、革命が激しさを増すと、やがて暴力的な急進派だったジャコバン派と対立するようになり、彼女は夫を逃がした後に捕らえられ、ギロチンの刑に処された。
夫ロランは逃亡の後、自殺したとみられる。