経歴
生い立ちと政略結婚
1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクスの三男として生誕。名をルイ=オーギュスト。兄が1761年、更には父の王太子が即位することなく1765年に薨去したため、祖父であるルイ15世の後継者として立太子した。
1770年5月16日にオーストリアの姫であるマリー・アントワネットと政略結婚し、4年後にルイ15世の崩御があったため、国王として即位。1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行うものの、食糧危機で暴動が起こるなど波乱の多い治世の始まりとなってしまう。
フランスの改革王
ルイ16世は最愛のアントワネット王妃との間に2男2女を儲け、1780年には拷問を廃止する詔勅を発布するなど宮廷と内政面では精力的かつ先進的な国王だった。だが、アメリカ独立戦争の支援を始めとした外交・軍事面で祖父譲りの積極策を採用したために、内政を行っても慢性的な不景気をもたらすなど裏目に出ることが多かった。
ただ、アメリカ独立戦争ではフランス海軍のド・グラス提督がヨークタウン沖の海戦でイギリス海軍を撃退した事が決定打となって、北米大陸に親仏政権を誕生させるという大成果を上げており、海軍力の強化やアメリカ合衆国の同盟国化と言う戦略は妥当であり、先代と比べると目に見える成果もキチンと上げている。
ただ、この外交的・軍事的大成果も国内の体力が尽きてしまった為に最終的に水の泡になるのだが・・・。
そして彼は、民を思うあまり致命的な2つの誤りを犯す。それはどちらも民意を汲んでの行いであったが、結果的に見れば最悪の失政となった。
第一の誤りが、高等法院の権限を復活させたことである。高等法院は暗君の暴走を防ぐために王の立法を阻止する権限があり、尚且つ平民が目安箱のように意見を具申できることから、平民の代表と見做されていた。だが実際は平民によって選ばれた法官が一人もおらず、18世紀には民意と王命の両方に逆らう厄介者に成り果てていた。先王ルイ15世は改革を志すたびにこの法院に却下され続けたことに激怒し、その権限を大幅に制限することに成功。これで、少なくとも善王の治世であれば善政が行われるはずであった。しかし高等法院を信頼する一般市民は、その弱体化を「民の代表が蔑ろにされた」と猛批判した。民の声を無視できないルイ16世は、側近の勧めもあって高等法院を復活させる。
このために、以後彼がどのような効果的政策を発案しても高等法院によって足止めされ、全てが手遅れになってから施行された。「ルイ16世は愚鈍でやることが全て遅かった」という怨嗟の声はここに端を発する。
第二の誤りが、三部会(聖職者、貴族、平民からなる議会)の招集である。これは重税にあえぐ平民にも発言させることで、貴族や僧侶に課税し、平民の権利を保障するという狙いがあった。しかし意図は良かったものの開催時期が最悪で、高等法院によって弱りきった王権では貴族たちの反抗を防げず、不公平な特権を何ら解体することができなかった。そして呼び出された上に全てを却下された平民議員は、これを王に裏切られたと感じ、啓蒙思想を暴走させた。王政の破壊を目指すもの、革命家の誕生である。こうしてルイ16世の民を思いやる善意は、貴族と平民の両方から反感を買っただけに終わった。地獄への道は善意で舗装されているとはこの事である。
逃亡と革命
1789年7月14日、パリの市民がバスティーユ牢獄を襲撃したことに端を発したフランス革命が勃発。初期のころは革命の精神に同意することも多かったルイ16世だが、徐々に先鋭化する革命に不安を覚えるようになる。王妃や一部貴族は国王に国外脱出と外国勢力の支援による事態の打開を主張していたが、国王は当初は国内で革命を見守るつもりで逃亡を拒否していた。しかし、革命派で信頼していたミラボーの死やミサに参加するために出発した国王一家が逃亡しようとしたと勘違いした群衆に制止され、宮殿に連れ戻される事件が起きると国王は次第にパリを脱出する方針に傾いてしまい、逃亡を計画する。その計画にはハプスブルク帝室の力で革命軍を倒すことを考えていたアントワネットと、彼女のブレーンで親しい貴族でもあったフェルセンも関わっていたとされる。だが、計画は露見して国境付近のヴァレンヌで国王一家は囚われてしまう。このヴァレンヌ逃亡事件を機に、絶大な人気を持っていたルイ16世の声望は地に落ちた。
捕まったルイ16世はテュイルリー宮殿に家族とともに幽閉。王の処分については穏健派のジロンド派や王党派、断罪を主張するジャコバン派の対立が膠着していたが、プロイセンやオーストリアとの戦争が劣勢になるにつれ、王党派の立場はどんどん悪くなり、「反革命」と見なされた人間が無差別に殺される事態にすらなる。ついに議会は王政を廃止。ルイ16世は「ルイ・カペー」と呼ばれるようになり、ジャコバン派による人民裁判にかけられた。
崩御
議会とは名ばかりの一方的な裁きにより、ルイ16世は死刑を求刑された。しかし、彼は上述の通り臣民を虐待したことが無かったため、死刑になるだけの罪が見当たらなかった。古代のような「失政をした王は死で償うべき」という風潮があったわけでもない。最過激派のサン=ジュストでさえ「王は何ら違法行為をしていない」と認めているのである。
では何で裁かれたかと言えば、その罪状は「王であること」そのもの。即ち「人民に帰する主権を奪った王は反逆者であり簒奪者」という判決であった。
そして1793年1月21日午前10時22分、ルイ16世はギロチンで処刑され、崩御した。シャルル=アンリ・サンソンと言う執行人に「ギロチンの刃を斜めにしてはどうかな」と助言した王が、その道具で抹殺されるという皮肉な末路であった。
評価
ルイ16世は「狩猟と錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な王」「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という2つの相反する評価を受けており、シュテファン・ツヴァイクの伝記小説『マリー・アントワネット』において、暗君として描いたイメージが広く知れ渡っており、現代のフランスにおいてもニコラ・サルコジ大統領が、無能な政治家の譬えとして引き合いに出した発言をしている。
しかしこれは革命政府と、それを継承した知識人たちによるプロパガンダの面も大きい。なにしろギロチンにかけてしまったので、革命政府としてはルイ16世が無能でないと「困る」のである。
一方で2008年にジャン=クリスチャン・プティフィスが、著作『ルイ十六世』において彼の政策を膨大な史料を元に紹介したところ、ドミニク・ド・ビルパン元外相(サルコジ大統領の政治的ライバル)などのフランスの政治家が同書を取り上げ、ルイ16世を高く評価している。
ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であり、上述の拷問の廃止や『三部会』の招集をはじめ、農奴制の廃止やプロテスタント・ユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者の一人であった。
海軍力の強化にも積極的で、アメリカ独立戦争勝利の立役者であるド・グラス提督を抜擢している他、自らも海軍に必要な学問や技術を熱心に勉強している。軍港視察に赴いた際には歴戦の将校達が舌を巻く程の知識を見せ、海軍の荒くれ水兵達と意気投合までしている。
ライバルのイギリスが海軍国でルイ15世時代の戦争では海軍力の差でイギリスに苦杯を舐めさせられているので、この点では国防や国際戦略の観点から妥当な政略を手際良くこなしたと言える。
また、食糧難によって市民がヴェルサイユ宮殿に押し寄せたときには、自らバルコニーに立ってなだめたという。民衆に対する武力行使にも消極的であった。
当時、マリー・アントワネットが数々のスキャンダルで世間を騒がせていたにも拘わらず、国王の威信が地に堕ちるということはなく、ヴァレンヌ事件までは絶大な人気を得て、フランス国民(パリ市民)に慕われていた。人々は良き王の統治を求め、上述の『三部会』開催の際に寄せられた数々の意見は、良き王への陳情という形式がとられていた。
当時の財政難は、ルイ14世が行っていた欧州・新大陸での戦争が直接の原因で、ルイ15世による放漫財政も大きな一因であり、ルイ16世は財政難打開のために識者を招き、改革を試みていたが、実行力に欠け、最後まで平民や貴族たちの理解を得ることはなかった。
総合的に見て、「穏健で知的だが、優柔不断で機を逃し、下手を打ち続けた」という表現が最も当てはまる。世情が安定していれば名君になれたかもしれないが、革命という時代の変わり目に王位に在していたのが不幸であった。確かにその優柔不断さが革命の一因となった面もあるが、まさかあんな大事になるとはヨーロッパの誰一人として(革命の主体であるフランス国民さえ)思っていなかったので、全てを彼の責任にするのは気の毒である。
尚、彼の処刑に際して議会が「専制君主の存在自体が罪」と論じた事は、当時からジロンド派やジャコバン穏健派に問題視されていた。それでは悪政をしていない善王であっても処刑せねばならないし、世界中の専制君主国家にフランスを攻める大義名分を作りかねないからである。
処刑反対派の悪い予想は的中してしまい、皇女を殺害されたオーストリア帝国を筆頭に、次々と近隣の王国や帝国がフランスに攻め込んできた。この未曾有の危機から連戦連勝を重ねて台頭したのがナポレオンであるが、その彼自身が皇帝になったのは皮肉というほかない。
遺言
近年見つかった処刑直前の遺言書は、市民に呼びかける形で書かれており、散り際にルイ16世は
「余は、余が告発された全ての罪について無実のまま死ぬ。余は、余の全ての敵を許す。 余の血がフランス国民にとって有益ならんことを、そして神の怒りを鎮めんことを、余は切望する。」
と言い残したとされる。
そこまでして民衆と国家を憂えたルイ16世であったが、その遺骸は無縁墓地に葬られた。
しかし、1815年1月21日に王家の墓所サン=ドニ大聖堂に改葬され、現在は愛した家族と共に眠り続けている。
余談
ベルサイユのばらや、晩年の肖像画、フランス革命による名誉毀損のためか、愚鈍な王というのを体現するかのように低身長で太った姿で描かれることが多いが、実際はかなりの高身長であり、更に最近の研究により筋骨隆々でヘラクレス並と呼ばれるほど力が強く、大工三人を木材の端に乗せて運んだという逸話を持つことが判明した。
マリー・アントワネットがフランスに輿入れした際、ルイ16世は15歳で178㎝、フランス王に即位したときは192㎝あったという。(妻のマリー・アントワネットが154㎝ほど)現代の基準でもかなり大柄である。
ルイ14世、15世とも体格が良かったので、その遺伝子を見事に継いだといえよう。
しかし、この筋骨隆々の巨体は最期に不幸な作用を産んだ。そのあまりに太く強靭な首は、ギロチンの刃を止めてしまったのである。当時は男性でも平均身長が165cmの時代であり、技師は192cmのヘラクレスを斬るという事態を考慮していなかった。慌てた刑吏が刃に体重をかけることでやっと首は切断されたという。
なお、最初の数年間はろくな性生活がなかったという。これは、ルイ16世に身体的問題があり、その手術を恐れていたこと、お互いに10代半ばという若さで結婚したためにセックスについてよく知らなかったことなどが理由として挙げられている。
ただ、身体的問題については後世の毀損による創作説がある。
このため、義兄のヨーゼフ2世がフランスに赴いて夫婦に手術やセックスなどをはじめとした夫婦仲に関する相談役を引き受けることとなり、その甲斐もあってか結婚7年目にして夫婦は子供を授かることができた。
そのせいかは不明であるが、家族仲が極めて良かったことが知られる。先王たちと異なり、愛人・寵姫の類を一切もたなかった。生涯をかけて王妃一筋の良き夫であり、マリー側もフェルゼン伯爵と親しすぎるきらいこそあるものの(創作では不倫扱いされることが多いが、史実にそのような記録はない)、夫と子供たちに愛を尽くした。
当時の王族としては非常に珍しく質素な食事を好み、皇太子時代は父が心配するほど線が細く痩せていたらしい。
酒に強かったらしく、ヴァレンヌ事件の失敗の要因の一つに、妻がこだわった目立つ上に豪華で遅いベルリン馬車の中にのどが渇きやすい彼のためにワインを大量に積んだことも挙げられている。一応、水は早く腐る危険性があるため、より日持ちする酒を水代わりにするのは決しておかしなことではないのだが⋯