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フランス王国

ふらんすおうこく

現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。987年のカペー朝の成立後を一般的に「フランス王国」と呼んでおりこれを前提とすると1848年にオルレアン朝が倒れるまで第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約860年続いた。
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概要編集

英:Kingdom of France 仏:Royaume de France

 現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年のカペー朝の成立後を「フランス王国」と呼んでおり、これを前提とすると、1848年にオルレアン朝が倒れるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約860年続いたことになる。

 創作においては、しばしば中世ファンタジーのモデルになる事が多い国でもある。


歴史編集

フランク王国の分裂編集

西暦481年にクロヴィス1世により建国されたフランク王国は後に彼の息子達に分割相続され、数百年間の分裂期を経た後に8世紀後半にカロリング朝のピピン3世により統一され、その子であるカール大帝シャルルマーニュ)の治世で急拡大した。やがてカール大帝が没した後に彼の末子である敬虔帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)が後を継ぐが、彼は死期が近付いている事を察して817年に帝位継承や相続領の割り当て等を規定した「帝国整序令」を発布する。

結局ルートヴィヒ1世は840年に死去するまで生きたが、死後は彼の3人の息子達の間で皇帝位や相続領を巡る争いが勃発した。最終的には842年に3人は和平を結び、843年に王国分割に関する「ヴェルダン条約」が締結された。こうしてフランク王国はそれぞれ西フランク王国東フランク王国中フランク王国の3つの王国に分裂した。

この内、後のフランス王国の母体となったのは西フランク王国だった。


西フランク王国(カロリング朝)編集

西フランク王国を統治する事になったのはルートヴィヒ1世の末子であった禿頭王シャルル2世だった。しかしシャルル2世の治世は多難を極め、特に彼を悩ませたのは北方から侵入して来るヴァイキング(ノルマン人)だった。西フランク王国は845年に主要都市パリ(この時はまだ王都ではなかった)をヴァイキングの大軍勢に襲撃されたが、シャルル2世は対抗する術を持たなかった。というのもこれは諸侯の力と独立性が国王を上回るほどに強く、対する国王の権力基盤は極めて脆弱だった為であった。彼はヴァイキングに和解金を支払う事で引き上げてもらう事に成功したものの、まともに抵抗できなかった事もあって諸侯の不信感を募らせ、国王の権威は失墜した。

884年にカルロマン2世が崩御すると、諸侯により東フランク王国から同じカロリング朝の血を引く肥満王カール3世が王として迎えられた。これにてフランク王国は再び統一されるが、887年に彼が東フランク王国で甥のアルヌルフの謀反により王位を追われ、888年に亡くなった後は統一王国は再び瓦解した。そしてこれ以降フランク王国が再び統一される事はなくなった。

885年の二度目のパリ襲撃の際に活躍した人物に有力家臣の一つであるロベール家出身で、パリ伯に封じられていたウードがいた。彼はパリ襲撃の際におよそ1年近くヴァイキングの猛攻に耐えた後に撃退する事に成功し、そして諸侯の支持もあってカロリング家の者ではないにもかかわらず、カール3世亡き後の888年に西フランク王に即位した。そして彼は吃音王ルイ2世の遺児である単純王シャルル3世と893年から王位を争う事となり、898年にウードが亡くなった後はシャルル3世の単独統治となり、こうしてカロリング家は再び王族として復活した。

シャルル3世は北方に住み着いたヴァイキングの長であるロロにノルマンディー公の地位を与え、他のヴァイキング勢力の防波堤にしようとした。やがてロロが治めたノルマンディーは「ノルマンディー公国」となり、約100年後にはギヨーム2世によりノルマン・コンクエストイングランド征服)が達成された。ギヨーム2世は「征服王ウィリアム1世」としてフランス臣下のノルマンディー公でありながらイングランド王を兼任し、また彼が創始したノルマン朝は現在のイギリス王室の祖先ともなるが、これは後の百年戦争の遠因ともなった。

922年、シャルル3世はウードの弟であるロベール1世の謀反により廃位された。ロベール1世は同年に王として即位するも翌923年にはシャルル3世との戦いで敗死した。シャルル3世は再び王位に返り咲くかと思われたが、ロベール1世の子であるユーグ大公とその娘婿であるラウールにより幽閉され、929年に獄死した。王位にはラウールが即位し、936年に彼が死去すると、イングランドに亡命していたシャルル3世の子がユーグ大公に呼び戻されて渡海王ルイ4世として即位した。954年にルイ4世が亡くなると、彼の子であるロテールが王位を継いだ。彼はユーグ大公の子であるユーグ・カペーと対立を深め、やがて諸侯の台頭へと繋がっていく。


カロリング朝の断絶・カペー朝の成立編集

相次ぐ外敵の侵略、連続する短命な王の治世、有力家臣による王位簒奪、諸侯による反乱の頻発など、シャルル2世以降の西フランク王国の政情は常に不安定だった。特にウードによる簒奪以降はただでさえ弱体だったカロリング朝は急速に衰退へ向かう。そしてカロリング朝最後の王だった怠惰王ルイ5世が事故で急死し、彼には嫡子がいなかった事からカロリング朝は断絶した。中フランク王国はこの時既に西フランク王国と東フランク王国に分割・併合されて消滅、東フランク王国でも同時代にカロリング朝が断絶しており、カール大帝の血筋は200年も経たずに滅びた。

カロリング朝の断絶後は諸侯による選挙で国王を選出する事となった。ロベール1世の孫であり、ウード王に繋がる血筋のユーグ・カペーは諸侯の支持もあってこの選挙で国王に選出され、西フランク国王(フランス王)に即位し、これによりカペー朝が創始された。

ユーグ・カペーの即位を以てフランス王国の始まりと一般的には見られているが、実際には王朝がカロリング朝からカペー朝に変わっただけで国家や体制そのものは西フランク王国と変わっていなかった。また「フランス(France)」の国名も元はフランク王国を意味しており、これはフランク王国を表すラテン語(Franc)がフランス語読みに変化しただけである。

しかしユーグ・カペーの血が後のヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝へとおよそ1000年もの間脈々と受け継がれていったのは間違いない。


カペー朝編集

新たな王朝が成立した後も相変わらず王の権力は弱体であり、その力もパリ周辺にしかほとんど及ばない有り様だった。しかしカロリング朝とは違って長生きした王が多かった事もあって王位継承問題は落ち着き、王の長い治世が続くにつれて次第に権力は安定していった。そして弱体な権力に1108年に即位した肥満王ルイ6世の頃に変化が訪れる。ルイ6世はイングランドの碩学王ヘンリー1世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に挟まれ、両国との対立を抱えながらも王権の拡大や宗教による諸侯の統一に努め、これを機に段々とフランス王の権力は強まっていく。

十字軍の時代編集

  • 中東への十字軍遠征

476年の西ローマ帝国崩壊以降、中世ヨーロッパ前期暗黒時代という言葉に代表されるように極度の混乱に陥っていた。カロリング朝フランク王国の台頭と共に混乱は収束していったものの、フランク王国の分裂以後は再びヨーロッパは混乱の時期に突入した。やがてヨーロッパを脅かしていたヴァイキングマジャール人がキリスト教化されていった事で西ヨーロッパはようやく安定し、またこの時期に寒冷から温暖な気候に変化した為、農業生産や人口の飛躍的な増加が発生した(中世盛期)。人口増加はそれに伴う社会問題や聖地エルサレム巡礼の流行に繋がり、西ヨーロッパの民衆の間では東方への関心が高まっていた。

そのような中、イスラム教国であるファーティマ朝により1076年にエルサレムが奪取される。この事を受けてローマ教皇ウルバヌス2世は1095年にフランスのクレルモンにおいてクレルモン教会会議を招集し、十字軍遠征を宣言した。教皇の呼びかけに人々は熱狂し、フランスからはトゥールーズ伯やフランドル伯などが参加した。会議から翌年に開始された第1回十字軍は大成功に終わり、エルサレム奪還を達成した他、十字軍に参加した騎士によりエルサレム周囲の地域に十字軍国家と呼ばれる国家群が形成された。

第1回十字軍の後、しばらくの間中東ではキリスト教勢力とイスラム教勢力が共存していたが、1144年に十字軍国家の一つであったエデッサ伯国が占領されると中東情勢は再び緊張状態となり、これを危機と見た教皇エウゲニウス3世は十字軍遠征を呼びかけた。1147年に開始された第2回十字軍にはフランス国王若年王ルイ7世や神聖ローマ皇帝コンラート3世が参加したものの、両国王の対立もあって遠征は難航して失敗に終わった。

1187年にアイユーブ朝サラディン率いるアイユーブ軍がエルサレムを陥落させ、ほぼ全ての十字軍国家が彼により滅ぼされると、教皇グレゴリウス8世はエルサレム奪還の為の十字軍を呼びかけ、1189年に第3回十字軍が開始された。尊厳王フィリップ2世はイングランド王獅子心王リチャード1世や神聖ローマ皇帝赤髭王フリードリヒ1世らと共に参加したが、フリードリヒ1世は途中で川で溺死し、リチャード1世とフィリップ2世はかねてより対立する仲だった為、1191年のアッコンの奪回直後、フィリップ2世は病気を理由に離脱し帰国した。結果的に第3回十字軍はリチャード1世とサラディンとの間で和平が結ばれた為、当初の目的を達成する事ができず失敗に終わった。

以後フランス国王が十字軍に参加する事はしばらくなかったが、第6回十字軍で再び奪回したエルサレムが1244年に再びイスラム勢力により陥落すると、敬虔なカトリック教徒であった聖王ルイ9世第7回十字軍を自身の主導で開始した。しかしイスラム勢力に補給路を断たれ孤立した彼は捕虜となり、結果的にフランスへ帰国して失敗した。その後フランス国内の内政に努めたが、1270年に再び十字軍遠征を行う事を決意。同年第8回十字軍を起こし、チュニジアへと向かったが、彼が率いた軍は飲料水の不足や疫病に悩まされ、彼自身も現地でペストに感染し死去した。王太子フィリップ(後の豪胆王フィリップ3世)はチュニジア勢と和睦し撤退した後、1271年にイングランドの王太子エドワード(後のエドワード1世)と共にアッコンへ向かった(第9回十字軍)。最終的にこの遠征も失敗し、以後中東への大規模な十字軍遠征は行われなくなった。

遠征そのものは大失敗に終わったが、中東の文物が西ヨーロッパに渡来するきっかけとなり、以降地中海世界での交易はますます活発となり、後のルネサンスの下地ともなった。

一方、中東への十字軍遠征と時期を同じくしてフランス国内にも十字軍遠征が行われた。12・13世紀のフランス南部ではいわゆるグノーシス主義的世界観を教義とする、キリスト教の一派であるカタリ派アルビ派)が南部諸侯や民衆の間で勢力を増していた。政治問題化を危惧した教皇インノケンティウス3世はフランス南部での司教の活動を停止すると宣言し、修道士ピエールを教皇特使として派遣した。しかし1208年にピエールが暗殺されるとインノケンティウス3世は激怒し、1209年にカタリ派の殲滅とそれを保護する南仏諸侯の征伐を宣言し、十字軍を呼びかけた。

当時の国王フィリップ2世はイングランド王ジョンや神聖ローマ皇帝オットー4世との対立を理由に参加を拒んだ為、フランス北部の諸侯が代わって参加した。北部諸侯中心のこのアルビジョワ十字軍は次々と南部の町を制圧し、南部諸侯から奪った領地を分け合ったが、それはカタリ派への殺戮や追放を伴っていた。現地住民は北部諸侯の占領に不満を抱くようになり、各地で結び付きを強め抵抗を始めた。その後戦況は泥沼化し、また十字軍に参加した諸侯の間でも対立が起きていた。

トゥールーズ伯は南部諸侯の一つで、カタリ派弾圧に対しては消極的な姿勢だったが、北部諸侯による侵攻を恐れて十字軍に加わった。しかし十字軍の主導者であったレスター伯との対立が深まり、十字軍の攻撃に晒された。その後両者の対立が続くが、抗争に敗れたレスター伯がフランス王獅子王ルイ8世に南フランスの全ての統治権を譲渡した。これにより大義名分を得たルイ8世は南部を次々と攻略し、続いてルイ9世によりトゥールーズ伯との間で協定が結ばれ、アルビジョワ十字軍は終結した。

この結果フランスの王権は南部にも広がり更なる強化を遂げたが、独自の文化を誇った南フランスは20年に渡る戦乱で荒廃し、またカタリ派に対しては異端審問が行われ徹底的な弾圧が加えられた。当然ながら彼らの間では不満が高まり反乱を起こす者もいたが、1240年代半ばまでには反乱はほとんど沈静化した。

アンジュー帝国との戦い編集

シャルル3世によりノルマンディー公としての地位を与えられたロロは、彼との間で結んだ条約を反故にして勢力拡大を続けた。やがてノルマンディー公国として半ば独立する事となり、ロロの子孫であるギヨーム2世によるノルマン・コンクエストでイングランドも統治する事となった。やがてウィリアム1世(ギヨーム2世)が打ち立てたノルマン朝からプランタジネット朝に移るとヘンリー2世により急速に領土拡大が進む。彼はアイルランドやウェールズ、スコットランドのみならずフランス本土にも目を向けており、政略結婚やフランス諸侯を従えた事によりフランスの西半分及び北部のノルマンディーを支配下に置いた。ヘンリー2世が築いたこの大帝国は「アンジュー帝国」と呼ばれ、王位はやがて獅子心王リチャード1世欠地王ジョンへと継承されていく。

ルイ7世は拡大を続けるアンジュー帝国を危険視し、相続領を巡るイングランド王室内の内紛や叙任権闘争に乗じて内乱を誘発させる事でアンジュー帝国を切り崩そうとし、イングランドで内乱が始まると自らも出兵したが、いずれもヘンリー2世に返り討ちに遭い失敗に終わり、ルイ7世自身も1180年に崩御する。

次代のフランス王に即位した尊厳王フィリップ2世は父ルイ7世の後を継いでイングランド勢力の排除を目標とした。かねてよりリチャード1世と仲の悪かった彼はリチャード1世が十字軍遠征でイングランド不在の隙にジョンに王位簒奪を唆すが、当のジョンがイングランドに帰国したリチャード1世に降伏した事で成功間近の所で失敗し、更に戦上手な彼に敗戦を重ねてしまう。リチャード1世がその戦いの最中で戦死し、ジョンが王位を継ぐと、彼は反攻に転じた。ジョンを見限ったノルマンディー公を含めたフランス諸侯が次々とフィリップ2世に寝返った事により彼は諸侯を取り戻す事に成功し、イングランドやそれと連合を組んだ神聖ローマ帝国の侵攻もブーヴィーヌの戦いで撥ね退けてジョンに完全な勝利を収めた。

こうしてフィリップ2世は内政・外交両方で活躍し、フランス国王の権力強化を果たした。そしてこれは後の絶対王政の下地ともなった。

またフィリップ2世亡き後は古くから独立志向の強かったフランス南部の諸侯にも上述のアルビジョワ十字軍などを経て国王の権力が浸透し、これによりフランスはヨーロッパでは比較的早い段階で中央集権体制が形成される事となった。

しかしまだまだ王権は弱体であり、全国的な支配ができるほどの権力が手に入るのは15世紀半ば以降の事となる。

国王と教皇――世俗権力と宗教権威――の対立編集

1285年に即位した端麗王フィリップ4世はフランスの勢力を拡大しようとイングランド領ガスコーニュやイングランドと繋がりの深かった北東部フランドル地方に侵攻し、イングランド王エドワード1世と戦争を開始した(英仏戦争)。英仏間のこの対立は後の百年戦争の遠因ともなった。

フィリップ4世はこの戦争に対し、膨大な戦費を調達する為に全国的な課税を行った。課税対象は教会にまで及んだが、この事はローマ教皇ボニファティウス8世の反発を招いた。当時フランスはローマ教皇庁にとって主要な財源地であり、この教会課税は教皇庁にとって大きな痛手だった為であった。

ボニファティウス8世は全面的な対立を回避する為にフィリップ4世の祖父聖王ルイ9世聖人として列聖した。彼は失った財源を補う為に1300年に「聖年」を制定してカトリック教徒にローマ巡礼を促した。結果としてローマは巡礼者で賑わい、教皇庁の財政難は回避されたが、フィリップ4世は彼を無視して教会課税を推し進めた為、彼は更に1302年に教皇至上主義を謳う「ウナム・サンクタム(Unam Sanctam、唯一にして神聖なる)」という勅書を発してフィリップ4世に教皇の権威に従うよう促した。

フィリップ4世は対抗して国内世論を反ボニファティウス8世で固める為に三部会を設置してフランスの国益を訴え、国民の支持を得た。これは人々の間に「国民」という意識が芽生え始めたと同時に教皇と国王の力関係が逆転した瞬間でもあったが、これにボニファティウス8世は激怒してフィリップ4世を破門した。対するフィリップ4世もボニファティウス8世を弾劾する為の公会議を開くよう要求し、両者の対立は先鋭化した。

1303年、フィリップ4世の政治顧問であったギヨーム・ド・ノガレは彼の密命により、同じく教皇と激しく対立していたイタリアのコロンナ家と結託してボニファティウス8世が滞在していたアナーニを襲撃し、ボニファティウス8世を捕縛して教皇の退位を迫った(アナーニ事件)。結果的に彼は救出され、無事にローマに帰還する事に成功したものの、暴力を伴った監禁は3日間に及び、ボニファティウス8世は事件から僅か1ヶ月後に憤死した(死因については諸説あり)。

ボニファティウス8世の急死を受けて、フィリップ4世はフランス出身の枢機卿ベルトランをクレメンス5世として教皇に擁立した。フィリップ4世の圧力で教皇庁はローマからフランス国内のアヴィニョンに移転し、以降数十年間ローマ教皇はフランスの強い影響下に置かれ、1377年にグレゴリウス11世により教皇庁がローマに戻されるまで続いた(アヴィニョン捕囚)。

フランスは比較的早い段階でローマ教皇の影響下から脱する事に成功したが、このアヴィニョン捕囚は後に教会大分裂大シスマ)の原因となった。


時を同じくして、フィリップ4世は財源確保と債務問題の解消を狙ってテンプル騎士団の資産を没収する事を目論んでいた。1312年に騎士団の解散を命じ、そしてジャック・ド・モレーを始めとする団員達を次々と異端の罪で処刑していった。これによりフランスは莫大な資産を手にしたが、一方で騎士団の汚名が払われるのは19世紀まで待たなければならなかった。


ヴァロワ朝編集

フィリップ4世以降は国王の急逝が相次いで王位継承は不安定となった。1328年に崩御した端麗王シャルル4世は嫡男が夭折していた為に男系男子がいなくなり、カペー本家が断絶した。代わってフランス王に即位したのはフィリップ4世の弟ヴァロワ伯シャルルの子であるフィリップだった。棚からぼたもちの如く王位を継承した彼は幸運王フィリップ6世として即位し、ここにヴァロワ朝が成立した。

百年戦争編集

しかしフィリップ6世の即位に異議を唱えたのはイングランド国王のエドワード3世だった。エドワード3世はカペー朝のフィリップ4世の長女イザベルを母親に持っており(つまりはエドワード3世はフランス王の女系の親族)、これを根拠に継承権を主張した。

しかしフランク王国の時代から存続していた「サリカ法」によって女系継承を禁じていたフランス側にこの要求が受け入れられる事はなく、フィリップ6世が即位した後に逆にアキテーヌ公として彼に臣従を誓わされる事となった。

百年戦争の直接の原因はこの継承権問題であったが、それ以外にも様々な問題があった。上述のようにアキテーヌやフランドルを巡る対立が未だに残っていた事の他に、エドワード3世が侵攻したスコットランドからフランスへ亡命したスコットランド王デイヴィッド2世、及びフィリップ6世との対立からイングランドに亡命していたアルトワ伯ロベール3世の身柄も巡って対立していた。

こうした様々な対立もあって英仏関係は非常に悪化しており、そして1337年にフィリップ6世が先述の身柄問題に痺れを切らしてアキテーヌ公領を没収すると宣言した事を皮切りに、激怒したエドワード3世が王位請求と共に宣戦布告した事で百年戦争が幕を開けた。緒戦では統制の取れた軍隊を持つイングランド側に対し、指揮系統が整っていなかったフランス側はフィリップ6世や善良王ジャン2世の失策もあって敗戦を重ねた。

イングランド軍の捕虜となったジャン2世がロンドンで客死した事を受けて、彼の王太子であったシャルルが賢明王シャルル5世として即位した。シャルル5世はまず税制を抜本的に改革して財政難を克服する事に成功した。また彼はブルターニュ継承戦争での活躍で名を上げていた騎士のベルトラン・デュ・ゲクランをフランス軍の総司令官に起用して緒戦の劣勢を覆す事に成功し、黒死病の大流行もあって1375年にイングランドとの間で休戦が合意された。

一方イングランドでは政変が発生して1399年にリチャード2世が廃位されてプランタジネット朝が倒れ、代わってヘンリー4世が即位した事でランカスター朝が成立した。また一方でフランス国内でもシャルル5世の子である狂気王シャルル6世発狂して政務が執れなくなった後には彼の家臣や王弟達が国家財政を恣にし、やがて彼らは政治の実権や対英方針を巡り対英強硬派の「オルレアン派(後にアルマニャック派)」と穏健派の「ブルゴーニュ派」に分裂して内紛が始まり、両勢力ともイングランドに救援を求めるなど対立は泥沼化していった。

ヘンリー4世は当初内紛への介入には消極的であったが、1413年にヘンリー4世が崩御した後にヘンリー5世が即位すると彼は積極方針へと転換した。フランス国内の内紛を好機と見た彼は再びフランスへ侵攻してアジャンクールの戦いにおいてアルマニャック派を破るが、勢力拡大を続けるイングランドを危険視したブルゴーニュ派はアルマニャック派へ接近し、両者の間で和解交渉が始まった。しかしブルゴーニュ派の筆頭であったブルゴーニュ公ジャン1世がアルマニャック派に暗殺された事で交渉は決裂し、ジャン1世の後を継いだフィリップ3世はイングランドとの同盟を決意。両陣営の度重なる交渉の末に「トロワ条約」が結ばれた。シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世との結婚と、シャルル6世の死後にヘンリー5世あるいは彼とカトリーヌの子がフランス王位を継ぐ事を取り決めたこの条約により、イングランドの勝利は決定的となった。

しかし事態は急変する。1422年にヘンリー5世が急死し、シャルル6世もその2ヶ月後に亡くなる。ヘンリー5世の遺児がヘンリー6世として即位するものの、彼は生まれて数ヶ月の赤ん坊であり求心力は低かった。そしてこの頃にシャルル6世の嫡子かつアルマニャック派の盟主であり、トロワ条約で継承権を剥奪された筈の王太子シャルルが、シャルル7世として即位をパリ南方のブールジュにおいて宣言し、イングランドへの抵抗を開始した。一方のイングランド側も攻勢に出、王太子シャルルの根拠地であったブールジュへ侵攻を開始し、オルレアンを包囲し始めた。

そこで本戦争最大の英雄であるジャンヌ・ダルクが登場する。彼女に導かれたフランス軍は1429年にイングランド軍に包囲されたオルレアンを僅か7日という驚異的なスピードで解放し、士気が高揚したフランス軍は破竹の勢いでロワール川沿いの地域を次々と解放していく。そして1429年7月17日に王太子シャルルは解放したランス市内のノートルダム大聖堂において戴冠式を行い、正式にフランス国王として即位した。

シャルル7世の戴冠後はイングランド側も対抗してトロワ条約に則り1431年にヘンリー6世をフランス王に即位させた。この時の政体は「イングランド・フランス二重王国」と呼ばれ、フランス王の座を手にするというエドワード3世の夢が実に100年の時を経て遂に実現した訳だが、この時点で既にフランス側からの支持を失って形骸化しており、百年戦争の終結と共に崩壊する事となった。

一方のジャンヌはパリ解放に臨むも失敗し、1430年のコンピエーニュの戦いでブルゴーニュ軍の捕虜となり、1431年に火刑に処された。この時彼女は僅か19歳だった。

ジャンヌの死後もフランス軍の勢いは止まらなかった。シャルル7世はブルゴーニュ派とイングランドとの同盟を解消する事に成功し、またブルゴーニュ派と和解してフランス側に合流させる事にも成功した。1436年にはパリの解放も成し遂げ、1450年にはフォルミニーの戦いでイングランド軍に大勝を収めてノルマンディーを制圧し、1453年にはカスティヨンの戦いでイングランド軍を破りアキテーヌ地方も制圧。イングランドはフランス北端のカレーを除いて大陸から全面撤退し、これにて百年戦争はフランス王国の完勝で終結した。

シャルル7世はこの功績から勝利王とあだ名され、またこの戦争を通して国王の権力はより一層強固な物となり、後の絶対王政の下地ともなった。

イタリア戦争編集

15世紀末のイタリア・ナポリ王国はスペイン系のトラスタマラ家が治めていた。しかしそれ以前はヴァロワ=アンジュー家が支配しており、1483年に即位した温厚王シャルル8世はヴァロワ=アンジュー家がヴァロワ家の分家である事を根拠としてナポリ王位の継承権を主張した。

時期を同じくして、ナポリ国王フェルディナンド1世は教会との対立を深め、教皇インノケンティウス8世は彼を破門した。インノケンティウス8世はフェルディナンド1世を失脚させるべくフランスのシャルル8世をナポリ王位に推薦した。

しかし1492年に教皇とナポリ王家との間で和平が成立し破門が撤回されるとこの推薦も立ち消えになり、自身を無視する形となった事に不満を抱いたシャルル8世は以降も引き続きナポリ王位の継承権を主張し続ける。

1494年、シャルル8世はインノケンティウス8世の推薦を根拠に遂にイタリアへ侵攻する。百年戦争を経て王権が強まったフランスは大量の兵を招集する事に成功し、総勢およそ2万人という当時としては類を見ない大軍を率いてイタリアへ侵攻した。フランス軍は有利に戦いを進めるも、この侵略に対してイタリア諸国は反仏同盟を結成して抵抗し、結果的にはフランス軍の大敗で終わった。シャルル8世は本国へ逃げ帰り、事故で急死した。

シャルル8世の嫡子はいずれも夭折している為、ヴァロワ本家が断絶した。その後はヴァロワ本家の傍系であるヴァロワ=オルレアン家ルイ12世が後を継いだ。ルイ12世は先王に続きナポリ王位を請求し、加えてミラノ公国の継承権も主張して1499年に再度イタリアへと侵攻した。しかしこれも失敗に終わり、ルイ12世も1515年に死去する。彼には嫡男がいなかった為にヴァロワ本家の別の傍系であるヴァロワ=アングレーム家フランソワ1世がルイ12世の後を継いだ。彼は即位した同年の1515年に再びイタリアに侵攻するが、この時は成功に終わり、僅か1年でミラノ公国を征服した。またこの年にレオナルド・ダ・ヴィンチなど多くのイタリアの芸術家がフランソワ1世に招かれてフランスへ渡った事もあって、同国にルネサンス文化が持ち込まれ栄える事となった。

1519年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が崩御すると、かねてより帝位を狙っていたフランソワ1世は皇帝選挙において後継者に立候補した。しかし選挙ではマクシミリアン1世の孫であったカール5世(スペイン王カルロス1世)に敗れ、これ以降彼はカール5世と皇帝位を巡り生涯をかけて争う事になる。1521年から1544年にかけてイタリアを巡って現地で何度も戦争を行い、また対神聖ローマ同盟として教皇やイタリア諸国、イングランドなどと共にコニャック同盟を結成した。イスラム教国であるオスマン帝国皇帝スレイマン1世とまで結び付いてカール5世に対抗しようとするもいずれも失敗し、1547年にフランソワ1世は志半ば崩御した。

イタリア戦争はフランソワ1世の子アンリ2世が即位した後も続いたが、国内で膨張するプロテスタントへの対処や財政難により継戦困難に陥り、1559年に「カトー・カンブレジ条約」によってフランスがイタリアへの権利を全て放棄する事で終結した。

宗教改革と宗教戦争編集

16世紀の神聖ローマ帝国はマルティン・ルターに端を発する宗教改革の波に揺るがされていた。カール5世は国内ではプロテスタント(ルター派)の諸侯が結成したシュマルカルデン同盟と対立を深めていた。宗教改革の波はフランス国内にも波及し、当時フランソワ1世はルネサンス的な気風があった事もあってプロテスタントには寛容であった。フランス国内に浸透した改革運動の中ではジャン・カルヴァンが登場して教会の腐敗を厳しく批判した。

しかしフランソワ1世自身はカトリックであり、更にはカトリックの教義等を非難する文書が王国各地に加えて自身の寝室までにも貼られていた為(檄文事件)、彼はプロテスタントを王国に対する脅威と見なして弾圧した。アンリ2世に王が代替わりした後もプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ迫害を受け、やがて両者は対立を深めていく事となる。国家による弾圧にもかかわらずカルヴァン派は民衆や貴族の間にも広がって勢力を増していった。

1562年、カトリック側のギーズ公フランソワによるプロテスタントの虐殺事件が発生した(ヴァシーの虐殺)。これを機にプロテスタント側の諸侯と国王との間で内戦が勃発(ユグノー戦争)。宗教対立以外にも貴族間の派閥抗争や諸外国との対立も絡み、何度か和平が結ばれたものの最終的に1598年まで8回に渡って続いた泥沼の内戦であり、この混乱の最中にアンリ3世が暗殺された事で1589年にヴァロワ朝が断絶した。


ブルボン朝編集

ヴァロワ朝が断絶した事を受けてヴァロワ=アングレーム家の傍系ブルボン家アンリ4世がフランス王に即位した事でブルボン朝が成立した。アンリ4世は元々はプロテスタント側であったがカトリック側との対立を収める為に自身はカトリックに改宗し、またプロテスタントに一定の制限付きで信仰の自由を認める「ナントの勅令」を発してユグノー戦争を終結させた。これ以降度々戦争や反乱があったもののフランスの王権は安定し、また17世紀半ば頃から絶対王政が確立する事となる。

アンリ4世はおよそ30年にも渡って続いたユグノー戦争で疲弊したフランス国内の回復に努め、数々の公共事業や文化振興、産業発展政策を行った。また海外進出も視野に入れ、探検家のサミュエル・ド・シャンプラン北アメリカ大陸に派遣した。これは現在のケベック州の基礎となった。

1610年にアンリ4世が暗殺されると、彼の嫡子であるルイ13世が即位した。ルイ13世は王権の更なる強化に努め、プロテスタントとカトリックとの間で勃発した三十年戦争(1618~1648)ではカトリック教国であるにもかかわらず宗教的対立よりも自国の国益を優先してプロテスタント側を支持した。

1643年にルイ13世は死去し、彼の子であった太陽王ルイ14世が即位した。彼は僅か4歳で即位したものの、1661年に彼を補佐していた宰相のジュール・マザランが死去すると親政を開始した。彼の治世でフランス王国は絶頂期を迎え、「朕は国家なり」というルイ14世自身の言葉に代表される絶対王政が確立された。ルイ14世は壮麗なバロック様式のヴェルサイユ宮殿を築き、また対外膨張政策に明け暮れ、ネーデルラント継承戦争スペイン継承戦争大同盟戦争に介入するなど積極的な外交政策を行った。しかし晩年には度重なる戦費や宮殿の建設・運営コストの負担が民衆に重くのしかかり、以降フランス王国は慢性的な財政難に陥った。

やがてブルボン朝最後の王であるルイ16世の統治の時代が来た。18世紀も後半のこの時代になると啓蒙思想が盛んに唱えられるようになり、またそれに合わせてブルジョワ階級や自由主義・資本主義も台頭しつつあった。ルイ16世は先々代王ルイ14世以来の慢性的な財政難に即位直後から悩まされていたにもかかわらず、1776年のアメリカ独立戦争に介入してアメリカ合衆国(13植民地)側に多額の資金援助を行った。しかし碌な見返りがなかった為に王国の財政に大打撃を与える結果に終わった。ルイ16世は様々な改革を行ったもののいずれも芳しい結果は得られなかった。


フランス革命編集

長引く財政難や重税、そして世界規模の寒冷化による全国的な食糧難を背景に民衆の不満が高まっていった。ルイ16世は財政難の打開策として貴族などの特権階級にも課税しようとしたが反発に遭い失敗し、招集した三部会では第三身分(平民)が大きく勢力を増して貴族・聖職者勢力と対立を深めた。

第三身分の議員らは「国民議会」を結成し、次いで「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」で結束を強め、自らを国民の代表であると位置付け、国王との対立が先鋭化した。ルイ16世は内部での反対を押し切って国民議会を承認したが、ルイ16世の弟のアルトワ伯シャルル・フィリップ(後のシャルル10世)率いる保守派によって占められた政府は2万人の軍隊をパリへ招集し、平民出身という事から民衆の期待を集めていた財務総監ジャック・ネッケルを武力を背景に罷免させた。

1789年7月14日、ジャック・ネッケル罷免の報を聞いた民衆の不満は爆発し、バスティーユ牢獄を襲撃した。これを契機として以後約20年間続いた、ヨーロッパ全土を巻き込む騒乱となったフランス革命が始まった。バスティーユ牢獄襲撃事件の知らせを聞いたアルトワ伯含む宮廷内の強硬派貴族は相次いで国外に亡命した。ルイ16世はネッケルの復職を決意し、民衆との和解を望んで国民議会の議長であったバイイをパリ市長として承認した。

国民議会は改革を行い、封建的特権の廃止や人権宣言の採択を宣言した。ルイ16世はこれらの改革に対し否定的であった為、民衆によりパリ市内のテュイルリー宮殿に軟禁された(ヴェルサイユ行進)。1791年6月にはルイ16世と王妃マリー・アントワネットが国外へ逃亡しようと試みて失敗に終わり(ヴァレンヌ事件)、同年9月にルイ16世は1791年憲法に署名する事で立憲君主として復権した。

しかし一方で国外では神聖ローマ皇帝レオポルト2世プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「ピルニッツ宣言」を発して「フランス王家の安全を守る為、必要があれば革命に介入する」という主旨の共同声明を出した。両国王は武力行使の意図はなかったものの、革命政府(ジロンド派内閣)はこれを事実上の最後通牒と捉えてオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発しており、経済危機も重なって国民の不安も蓄積していた。やがて共和制を求める運動が急進左派を中心として広まり、国王一家は1792年の8月10日事件でテュイルリー宮殿からタンプル塔へ幽閉されて立憲君主体制は崩壊した。9月21日に王政廃止宣言に伴いルイ16世も廃位され、ブルボン朝は倒れた。

最終的に処刑の是非を問うた投票では僅差で国王の処刑が決定され、そして1793年1月21日午前10時22分、ルイ16世はギロチンを用いて斬首刑に処された。この時を以てユーグ・カペー以来806年間(西フランク王国のシャルル2世も含めれば950年間、後述の復古ブルボン朝・オルレアン朝まで含めれば984年間)続いたフランス王国は滅亡した。


なお、アレクサンドル・デュマによるとルイ16世は死刑の直前にこのような言葉を遺している。

「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちる事のないように神に祈りたい」

フランスへの思いが込められた言葉だったが、彼の言葉に涙を流す者は誰一人としていなかった。


また後に王党派はルイ16世と王妃マリー・アントワネットの子であった王太子ルイ・シャルルを国王ルイ17世とすると宣言したが、革命の最中パリのタンプル塔に幽閉されていたルイ・シャルルは正式な戴冠式ができず、また国王となった事を知る由もなかった為に名目上の物に留まった。

ルイ・シャルルはその後苛烈な虐待の末に1795年に死去した。


王政復古(復古ブルボン朝)編集

フランス王国が革命で倒れた後は共和政が敷かれ(第一共和政)、その後ロベスピエールの恐怖政治や総裁政府を経て、ナポレオン・ボナパルトが台頭・皇帝に即位して1804年にフランス帝国が成立する(第一帝政)。これはを中心とする対仏大同盟の結成を招き、続いてナポレオン戦争が勃発する。

フランス帝国の敗戦後はルイ16世の弟であるルイ18世の元で王政が再び行われた。かつてのような絶対王政はもはや行われなくなったが、既に民主主義といった革命によってもたらされた思想がすっかり浸透したフランス国民から支持を得られる筈がなく、1824年にルイ18世の後を継いだシャルル10世がかつての絶対王政の復活を目指して反動的な姿勢を強めた事が引き金となり、1830年の七月革命で復古ブルボン朝は倒れた。


七月王政(オルレアン朝)編集

反動的な政治に不満を持った民衆の蜂起によりシャルル10世は退位に追い込まれ、代わってブルボン家の流れを汲むブルボン=オルレアン家ルイ・フィリップが国王に即位し(称号は「フランス国王〈Roi de France〉」ではなく 「フランス人の王〈Roi des Français〉」 )、こうしてオルレアン朝は成立した。

貴族制・世襲制が廃止され、立憲君主体制が確立された一方で、選挙権は依然として厳しく制限されたままであり、労働運動は弾圧された。こうした旧態依然とした面も残る統治に民衆の不満は1846年の恐慌も相まって高まり、1848年に二月革命が発生した。この革命でオルレアン朝も倒れて第二共和政が成立するが、以降フランスに王政が復活する事はなくなり、フランス王国は完全に消滅した。


現在編集

王族の一部は身分を失っても現在まで存続しており、またスペインでは現在でもブルボン家が王族となっている(スペイン=ブルボン朝)。

ブルボン家の復権を主張する「レジティミスト」とブルボン=オルレアン家を主導者として王政復活を目指す「オルレアニスト」が、ボナパルト家帝政の復活を目指す「ボナパルティスト」と共に、互いに対立しながら今日まで政治運動を続けている。


歴代フランス国王一覧編集

※括弧内は在位・存続期間を表す。またヴァロワ朝は傍系も含む。

カロリング朝(843~987)
禿頭王シャルル2世(843~877)→吃音王ルイ2世(877~879)→ルイ3世(879~882)/カルロマン2世(879~884)→肥満王カール3世(885~888)→ウード(888~898)→単純王シャルル3世(893~922)→ロベール1世(922~923)→ラウール(923~936)→渡海王ルイ4世(936~954)→ロテール(954~986)→怠惰王ルイ5世(986~987)
カペー朝(987~1328)
ユーグ・カペー(987~996)→敬虔王ロベール2世(996~1031)→アンリ1世(1031~1060)→フィリップ1世(1060~1108)→肥満王ルイ6世(1108~1137)→若年王ルイ7世(1137~1180)→尊厳王フィリップ2世(1180~1223)→獅子王ルイ8世(1223~1226)→聖王ルイ9世(1226~1270)→豪胆王フィリップ3世(1270~1285)→端麗王フィリップ4世(1285~1314)→喧嘩王ルイ10世(1314~1316)→遺児王ジャン1世(1316)→長身王フィリップ5世(1316~1322)→端麗王シャルル4世(1322~1328)
ヴァロワ朝(1328~1589)
幸運王フィリップ6世(1328~1350)→善良王ジャン2世(1350~1368)→賢明王シャルル5世(1364~1380)→狂気王シャルル6世(1380~1422)→勝利王シャルル7世(1422~1461)→慎重王ルイ11世(1461~1483)→温厚王シャルル8世(1483~1498)→ルイ12世(1498~1515)→フランソワ1世(1515~1547)→アンリ2世(1547~1559)→フランソワ2世(1559~1560)→シャルル9世(1560~1574)→アンリ3世(1574~1589)
ブルボン朝(1589~1792)
アンリ4世(1589~1610)→ルイ13世(1610~1643)→ルイ14世(1643~1715)→ルイ15世(1715~1774)→ルイ16世(1774~1792)→ルイ17世(名目上)(1793~1795)
復古ブルボン朝(1814~1830)
ルイ18世(1814~1824)→シャルル10世(1824~1830)
オルレアン朝(1830~1848)
ルイ・フィリップ(1830~1848)

関連タグ編集

フランス ジャンヌ・ダルク ファンタジー メルヘン

中世 中世ヨーロッパ 百年戦争 フランス革命


国歌編集

  • 496年から1791年まで

God save the King / Dieu sauve le Roy

  • ブルボン朝時代の国歌

Hymne Royal "Vive Henri IV" - Maison de Bourbon

First French Empire / Primer Imperio Francés (1804-1815)

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