概要
イスラエル東部に位置する都市。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教における聖地であり、歴史的にはヨーロッパのキリスト教国家(十字軍など)とイスラム国家との宗教上の、現代政治的にはパレスチナとイスラエルの係争地である。
宗教の聖地都市としての歴史的重要性はあるものの、中近代においては他都市より発展の遅れた一地方都市に成り下がっていた。しかし近年イスラエルの「首都」として急速に市街地の拡大・都市化が進んでいるが、国際社会からは認められていない。
東エルサレムと西エルサレム
エルサレムは1949年の第一次中東戦争以降、ヨルダンの支配下に置かれた東エルサレムと、それ以西のイスラエル支配地域の西エルサレムに分断された。後に両地ともイスラエルの占領下となったが、東エルサレムにおいてはパレスチナ自治政府が領有を主張(ヨルダン川西岸地区に含まれているとしている)、国際社会もイスラエルの「占領」を認めていない。
現在も東西エルサレムは共にイスラエルの支配下にあるが、東エルサレムはアラブ人中心の居住区、西エルサレムはユダヤ人中心の居住区となっている。もっとも東エルサレムにもユダヤ人の入植が進んでいる。
ソロモン王の代に始まる古代エルサレムの領域(いわゆるエルサレム旧市街)は、東エルサレムの一部地域に相当する。19世紀半ばまではこの旧市街がエルサレムの全域と見做されていた。
一方で同地が三大宗教の聖地であるという理由から、同年代以降ユダヤ人の流入が進み、シオニズム運動の拡大により市域は急速に拡大していった。1949年時点でのエルサレムの内、東エルサレムとされた領域は市域の僅か20%程度に過ぎない。
一方の西エルサレムは、ユダヤ人居住区の急拡大によってつくられた比較的新しい都市である。このため西エルサレムには近代的な建築物が多く、伝統的な建物は市域拡大の過程で取り込まれた村落にあった物がいくつかあるのみである。
この西エルサレムの拡大により、かつては宗教の聖地という以外単なる一地方都市のような扱いであったエルサレムは急速に都市としての規模を増大させ、パレスチナ地域・イスラエルを代表する都市となった。
西エルサレムはイスラエルの首都として同国の政治・経済の中枢も置かれている。ただし大使館などはテルアビブに置かれ、国防省も軍事的観点からテルアビブに在している。
パレスチナが西エルサレムに対しての帰属主張を最初から放棄しているのは、単にアラブ人に殆ど縁の無い土地だから言える(ただし、西エルサレム拡大過程で取り込まれた村は元々アラブ人の村であり、モスクなどもある)。対するイスラエルは実効支配する東エルサレムも含めて首都を主張している一方、首都機能に関して西エルサレムにのみそれを置いている。
このことからパレスチナ側は東エルサレムを首都と宣言、イスラエル側は西エルサレムの他、東エルサレムを含めた全域(統一エルサレム)を首都と主張している。
最近言われる例えに「東エルサレムは京都、西エルサレムは多摩ニュータウン」という例えがある。やや端的に過ぎるが東西エルサレムの立ち位置を現したものとも言える。一方で西エルサレムは意図的・計画的に作られた首都機能都市として、ブラジリアやワシントンDCなどにも例えられる。
国際社会
2017年以降、一部の国家はエルサレムに在イスラエル大使館を移すことを計画している。代表的なのはアメリカで、ドナルド・トランプの大統領当選以降これを主張するようになった。
この他にはロシアが首都と認めているが、国によっては「西エルサレムがイスラエルの首都」と明言している。
アメリカにおいても、西エルサレム地域への大使館移設を計画しているが、アメリカ自身はエルサレムの帰属問題について「イスラエルとパレスチナの当事者間で解決すべきで、米国は特定の立場を取らない」としている。
識者の中にはアメリカの大使館移設は西エルサレムに対してであるから、パレスチナとの間に問題は発生し得ないとする立場を取る者もいる。米国大使館員においても、「西エルサレムを首都とし、東エルサレムをパレスチナの首都とする姿勢を歓迎する」とわざわざ宣言した者もおり、真意についてロシアのような東西分離を図った可能性はある。
もっともイスラエルは全域を首都であると主張しているので、ロシアのように西エルサレムのみを首都と認めると明言しない限りはイスラエルの主張の追従と見る者もいる。
年表
紀元前1000年頃:ユダヤ人のヘブライ王国が成立
紀元前586年:王国が滅亡、バビロン捕囚にて住民も連行される
紀元前539年:帰還が始まり、王国も再建される。エルサレム神殿も建立される
紀元前37年:ローマの支配下となる
30年頃:イエス・キリストが処刑される(キリスト教の聖地となる)
70年:エルサレム攻囲戦にて陥落、神殿が破壊されユダヤ人の居住が禁止される(嘆きの壁がユダヤ教の聖地となる)
638年:アラブ軍が占領
692年:岩のドームを建立(イスラム教の聖地となる)
1099年:十字軍が占領
1187年:イスラム王朝が奪還、以降長らくイスラム圏として存続
19世紀以降、シオニズム運動が高まりを見せる
1918年:イギリス委任領となる
1930年以降、ヒトラーの台頭によりシオニズム運動が加速
1947年:パレスチナ分割会議、イスラエル独立、第一次中東戦争を経て東西に分割される
王国時代
十字軍国家の一つで、その要でもあり、遠征期に建国された。
1099年の十字軍によるエルサレム建国を起源としており、約3000年前に存在したイスラエル王国などの古代イスラエル国家との直接的な繋がりは無い。
イスラム王朝のエルサレム奪還後は西ガリラヤ地方のアッコに遷都し、その後も1291年まで国家として存続した。
アッコもイスラム王朝の支配下となると正式に滅亡したが、他の消滅した多くの君主国と同様、子孫によって君主位の請求が行われている。
君主位請求権は、時が経つにすれ正嫡家の断絶や継承時の取り決めの齟齬が原因となり分裂することがままあるが、とりわけエルサレム国王位に至っては、その継承方法(ローマ帝国の方式に部分的に沿ったため、世襲継承と制限選挙継承がまざっていた)が問題となって大量の請求者が存在する。
具体的には、キプロス王家を通じてイタリア王家であったサヴォイア家の当主位を争う全ての人物、またナポリ王位が各家に占拠されるにつれ細分化されたもの(これには、スペインブルボン家の当主であるスペイン国王、また本来の長男系に近いレジティミスト系フランスブルボン家当主、更にはロレーヌ公家経由でのオーストリアハプスブルク家当主、加えてもう一つのブルボン家系統である両シチリア王家の二つの家系)、フランスの貴族ブリエンヌ家、ロシアのリュジニャン侯などがいる。
三枚舌外交
第一次世界大戦中にイギリスはアラブ人にはアラブ独立を、ユダヤ人には居住地の建設を約束する代わりにそれぞれ兵力・資金援助を得る協定を結んでおきながら、さらにフランスと組んでシナイ半島を自分たちのものにする密約を交わしていた。更に第二次世界大戦の戦後処理を他国に丸投げしている。
宗教とエルサレム
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの宗教において重要な聖地である。そしてその事が、現代も中東の紛争においてエルサレムが発端となることと不可分になってしまっている。
ユダヤ教におけるエルサレムはかつてソロモン王が築いたヤハウェ神殿があった聖地であり、ユダヤ教信仰の中心地であった。神殿は繰り返し再建された後にローマ帝国に破壊された。その基礎部分の西の壁は現在の東エルサレムに位置し、嘆きの壁とも呼ばれるユダヤ教の最も重要な儀式の場である。キリスト教におけるエルサレムはイエスが処刑された聖地であり、東エルサレムにあるとされる処刑地、墓地、復活の地には聖墳墓教会が建つ。イスラム教におけるエルサレムは、開祖ムハンマドが神に会うために昇天した出発地として聖地である。これも東エルサレムの、しかもユダヤ教のヤハウェ神殿跡地にある大きな岩がその場所だという。現在は岩のドームという宗教施設になっている。ところがこの岩はユダヤ教ではアブラハムが息子を神に捧げようとした場所であり、その謂れから後に神殿の中心になった場所でもある。
さて、以上のように東エルサレムには各宗教の聖地が密集する。かつてはキリスト教もこの地を抑えようと十字軍を起こした。現代では岩のドームがイスラム教の聖地であり、その建築の西壁がユダヤ教最重要聖地である。両教徒とも宗教的なデモを好んで周辺で行い、イスラエル警察という異教徒が取り締まりに岩のドームに侵入したりすれば、イスラム教徒には許し難い大問題になる。こうして、現代のイスラエルとパレスチナの紛争の発端は、しばしばエルサレムに生じている。
関連タグ
テルアビブ・・・事実上の首都