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十字軍

じゅうじぐん

11世紀~13世紀にかけて行われた、キリスト教徒による聖地エルサレム奪還運動。 このときに西アジア経由で学問・文化に関する情報が西欧に一気になだれ込み、次の時代を開くきっかけを作った。
目次 [非表示]

概要

十字軍とは、中世西ヨーロッパで結成されたキリスト教による軍隊である。

11世紀から13世紀にかけて行われ、一度はエルサレムを占領、征服したものの、イスラム教国家の反撃を受け、結局は失敗した。


単純化すればそれだけの話だが、歴史的な意義は計り知れないほど大きく、詳しく解説しようとすると数十冊の本が必要になる。


転じて『道徳的な大義名分を振りかざした侵略的行為』を十字軍と呼んで非難することもある。

が、当のキリスト教徒(特にカトリック)によって肯定的な意味で使われてしまう例もある(キャンパスクルセード等)。


裏事情

色々と無茶苦茶をやっている十字軍だが、そもそもこの原因となったのは騎士王政国家での土地問題反教会運動であった。

当時のヨーロッパは大開墾時代であり、地球温暖化の影響もあって(現代より平均気温が高かった)人口は増加傾向にあった。

一方、国が騎士に対して報償として与えられる土地に限界が来てしまい、また国家間の戦争も沈静化する傾向にあったため、騎士たちに仕事が無くなり、生活に危機にさらされていく。

平民たちも同様に、人口が増えすぎて耕す土地が足りなくなり、失業者があふれ、治安が悪化していた。

また教会側も、その強権的な姿勢ゆえに徐々に批判が噴出し、その対応と鎮静化に追われていた。


それらを同時に解消し、かつ正統な口実が成立する事業こそ「十字軍」であった。


教会……異教徒を倒して威信増大!

騎士……異国の征服で領土が増える!戦利品もガッポリ!

平民……豊かな土地に移住できる!


ゆえに、十字軍の中にはまったく関係ない一般人が多数まぎれていたという記録がある。さらには多数の死刑囚などの凶悪人物が、免罪の特典つきで徴兵させられたらしい。


そして十字軍に所属した人間の多くは非常に人間としてのマナーがなっておらず、道中での農村への略奪は当たり前、『異教徒狩り』と称して虐殺を繰り返し、挙句はいたいけない少年少女たちを奴隷として売りさばくということさえ平然と行われた。


さらにエスカレートしたものでは殺害した女子供の肉を食うことまであった。

カトリック万歳!!

結局のところ十字軍の遠征とは『西洋国家のストレス発散』といえるえげつない行為であり、もっというとキリスト教カトリック以外の価値観を排したかった努力でもある。


カトリックとはキリストの教えは教皇(男子)と聖書を通す教えを信条とする

教皇が神の代理人であるから、それ以外の物・考え・価値観は排するべきだとも考えたりするものである。


なのでローマ皇帝キリストの代理人を信条とする。東ローマ帝国国教のキリスト教オーソドックスをも廃する野望もあったようである。


釈明しておくが、純粋に信望から聖地奪還を目指した人々も少なくはない。

……ただ、そんな中にも「異教徒は死ね!!」レベルの狂信者も多数いたとか。


キリスト教はカトリックの教えのみ!!!それ以外は地獄へ堕ちろという風潮だったのもあながち間違いはない異端者異教徒狩りも大いに流行った(しかしそのカトリックという勢力という物の傲慢さも目に見えた時代でもある)


ヨーロッパ内の異端に対しても「十字軍」が行われたことがある(アルビジョワ十字軍)。


文化的影響

補足として、この遠征によって多数の商人が西アジアの学問・文化をヨーロッパにもたらし、活版印刷術火薬の精製銃火器の製造錬金術香辛料の存在といった、のちの歴史に多大な影響を与えた要素を持ちかえっている。


主要な十字軍

一般的に知られている十字軍は1096年に行われた第1回十字軍から始まり、第1回十字軍によりシリア近辺にてヨーロッパ諸侯らが建設した国家を十字軍国家という。第2回十字軍以後は十字軍国家のイスラム勢力からの防衛も含まれる事になる。


いわゆる第○回十字軍の行われた回数のカウントは資料等によって諸説有り。Wikipediaでは第9回十字軍までカウントしている。


また北方十字軍のようなイスラム教徒以外の非キリスト教徒に対する征服活動やアルビジョワ十字軍のような異端派討伐も十字軍と呼称する。


第○回十字軍










その他の十字軍

  • ノルウェー十字軍(1107年~1110年)
  • 少年十字軍(1212年)
  • 北方十字軍(12世紀~13世紀)
  • アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)
  • ニコポリス十字軍(1396年)

十字軍の変質・終焉

第一回十字軍からおよそ二百年後、十字軍最後の拠点であるアッコンが陥落。十字軍時代は終わりを告げた。

その200年間に、キリスト教、イスラム教双方に大きな変遷があった。


キリスト教側

もっとも大きな変化と言えるのは、キリスト教徒たちが「あれ、異教徒と戦うより交易したほうが得なんじゃね??」と気づいたことである。

第一回十字軍以降、交流とともに交易が増加。イタリアでは多くの都市国家が興り、のちのルネサンスの下地を築いた。

当然、カトリック教会はあまりいい顔をしなかったが、商業が繁盛すれば自分たちに回ってくるお布施が増えるので、こうした交易を頭ごなしに禁止することはなかった。

もうひとつは、十字軍のそもそもの目的であった「布教・領土拡大・植民」という三つの目的を果たすのに、わざわざ遠いパレスチナまで行く必要がない、という事実である。そんなわけでドイツ騎士団はすぐお隣のポーランドに向かって進撃開始。のちのプロイセンとなる領土を獲得した。さらに第四回十字軍では、コンスタンティノーブルを攻略。聖地奪還という当初のお題目はどこへやら。かつて西欧の人々をひとつにまとめ上げた十字軍の理想は、完全に空文化していたのだ。


イスラム教側

イスラム側は十字軍に対して対抗しつつ、キリスト教を完全に排除することはなかった。そもそも中東は昔からキリスト教徒の多い土地であり、異教徒との協調は必然であり、また必要でもあった。

それが大きく変化するのは、十字軍とはまた違う侵略者、すなわちモンゴル帝国の侵入である。こちらは十字軍とは比較にならないほどの荒廃を、イスラム諸国にもたらした。かつてシュメール・バビロニアの時代から文明の中心地だった中東は、二度と復興できないほど破壊された。21世紀の現在でも復興していない。

これに対抗するために、イスラム教も協調路線など取っていられなくなった。モンゴルの進撃を食い止めたマルムーク朝は、返す刀で十字軍に斬りつけた。彼らがモンゴルから学んだことは、「殺らなければ殺られる」という単純な論理であった。かくして、中東におけるキリスト教とイスラム教の協調は失われたのである。


備考

グレートヘルム 別名バケツ型兜。第1次十字軍頃に多用された。

サーコート 鎧の上から羽織るマント。中東の厳しい日光で鎧が熱くなるのを避けるために、十字軍の頃から用いられた。

騎士修道会 『戦う修道士』騎士団の騎士などのモデルケース

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