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東ローマ帝国

ひがしろーまていこく

東西に分裂したローマ帝国の東側。AD395-AD1453。
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概要

395年、ローマ帝国の東西分割から1453年まで存続した、古代ローマ帝国の後身。帝国東部は、統一ローマ帝国時代からギリシャ文化(ヘレニズム)の色彩が色濃い地域であり、7世紀以降の公用語はギリシャ語となった。こうして東ローマ帝国は、ローマ人の帝国からギリシャ人の帝国へと変化していき、現代に続くギリシャ文化圏の母体となった。

初期の帝国は、貨幣経済や都市の大部分が崩壊した西ローマ帝国領(イタリア・フランス・スペイン)に比べれば高い国力を保ち、ユスティニアヌス帝の治世には一時イタリアや南部スペイン、カルタゴ周辺といった西地中海にも影響力を保持した。有名なアヤ・ソフィア聖堂がイスタンブール(そのころはコンスタンティノポリス)に建てられたのもこの頃である。帝都コンスタンティノポリスは地中海世界有数の大都市として繁栄した。

その後のササン朝、さらにイスラーム帝国との争いのなかで帝国はシリア・エジプト東部の大半と地中海を失い、さらに周辺にはブルガリア]帝国などの勢力が一時帝国を脅かすものの、それでも11世紀ごろまでは地域大国としての地位を保ち続けた。

しかし、内陸からはトルコ系イスラーム教徒によるアナトリア内陸部への移住、海からはイタリアの海港共和国の勃興、北からは周辺諸王国の勃興という形で、帝国は徐々にその勢力を削られていく。そしてついに1204年、ヴェネツィア共和国を中心とする第4次十字軍によってコンスタンティノポリスは陥落。1264年には復興するとはいえ、もはや帝国の衰退は避けがたくなっていく。

最後の皇帝家パレオロゴス朝は、これまでのローマ各王朝が古代共和制の時代を引きずり必ずしも世襲で地位を継承しなかったのに対し、200年近くその地位を世襲で継承した。翻せばそれは、有力な諸侯が何人も存在した全盛期とは程遠いほど帝国が衰退し、オスマン帝国の権勢に常に潰されそうになりながらやっと存続してきた歴史を現しているとも言えた。
そして、ギリシャ文化の一部は緩やかにイタリアへと伝わり、古典復興運動の一翼を担っていく。

そしてついに1453年、もはやコンスタンティノポリスと一部を残すのみとなった帝国は、それ以外のかつてのアナトリア・トラキアの帝国領をおさえていたオスマン帝国の猛攻の前に滅亡。陥落した帝都コンスタンティノポリスは、トルコ語読みのオスマン帝国帝都クスタンティニエ、さらにイスタンブールと名を変え、再び東地中海に君臨する大都としての道を歩みだすことになる。
…だが、もはやこれ以後の地中海に、「ローマ帝国より連綿と継承された正当なローマ皇帝」が君臨することは無かった。

東ローマ帝国滅亡後

パレオロゴス家の末裔は、現在でもヨーロッパ各地に何人か存在する。その家系図は信憑性の高いものから胡散臭いものまで多数あるが、東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)の請求者を名乗る者も何人かいる。
そのうちの一人、エンリコ・コンスタンティノ・パレオロゴ(アンリ・コンスタンティン・パレオロゴ)は皇帝テオドロス2世の傍系末裔とされ、デヴィ夫人らとの交流で来日したことがある。

いくつかの国々が、その後の歴史において東ローマ帝国の後継者を名乗った。東ローマを滅ぼしたオスマン帝国のスルタンであるメフメト2世は、「カイセリ・ルーム」すなわちローマ皇帝を自称した。ロシアでは、モスクワ大公国イヴァン3世が最後の東ローマ皇帝の姪を妃に迎え、正教の重要拠点であることも根拠として後のロシア政府はしばしば第三のローマを名乗った。近代にギリシャが独立すると、「メガリ・イデア」すなわちギリシャ人の帝国であった東ローマ帝国の領土を復興・統一しようという主張が生じた。

創作において

ヘタリアのギリシャさんの母親がビザンツ帝国ではないか、と思しき描写がある。ただしこれは古代ギリシャの可能性もある。

・「将国のアルタイル」に登場する都市国家、ポイニキアのモチーフ(ギリシャ風の衣装、建築物、大城壁、古代帝国の帝都)の一つがコンスタンティノポリスとみられる。

・日本では塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」が、ビザンツ滅亡を扱った小説として知られている。

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