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概要

395年、ローマ帝国の東西分割から1453年まで存続した、古代ローマ帝国の後身。首都は一時を除いてコンスタンティノポリス(今のイスタンブール)に置かれた。帝国東部は、統一ローマ帝国時代からギリシャ文化(ヘレニズム)の色彩が色濃い地域であり、7世紀以降の公用語はギリシャ語となった。こうして東ローマ帝国は、ローマ人の帝国からギリシャ人の帝国へと変化していき、現代に続くギリシャ文化圏の母体となった。

現在は名目上、滅亡した西ローマ帝国と区別して「東ローマ」と呼ばれることが多い。しかし当時の帝国公式の立場は、古代から一貫して「ローマ帝国」であり、滅亡も分裂もしていないという建前を維持していた。ローマ帝国の東西両帝のうち476年に西方皇帝が廃位され東方皇帝に地位が返上された以上、東方皇帝のみが以後ローマ皇帝となるわけである。

一方西欧では、797年にエイレーネーが史上初めて女帝として即位したことをローマ教皇が前例なき即位であり僭称とし、当時のフランク王をローマ皇帝と称することにした。これがカール大帝である。以後の西欧では、東ローマはギリシャと呼ばれ、その君主はギリシャ皇帝と呼ばれるようになっていく。一方、東ローマ帝国は812年にカールのフランク皇帝(インペラトル)称号を認めたが、この時もローマ人の皇帝つまり対等の西ローマ皇帝であるとは認めていない。

また近代歴史学では「ビザンツ(ビザンティン)帝国」とも呼称され、現在はこちらの名称を使われることが多い。ただしこれも後世の歴史学者がローマ帝国と区別する為に便宜的に作った言葉であり、当時はビザンツという名は使われていなかった。

歴史

ローマ帝国の分裂

広大なるローマ帝国は史上何度か複数の有力者によって分割支配されことがある。軍人皇帝時代の混乱を治めたディオクレティアヌス帝は、東西に正帝を置いてさらにそれぞれ副帝の支配地を分割するテトラルキアを行い、これがおよそ後の東西ローマ帝国の領域に重なる。その後、基本的に東西に皇帝が並立する時代が続き、コンスタンティヌス1世は東西を統一した上でトラキアに新首都コンスタンティノポリスを築く。この前後からローマ帝国の繁栄の中心は大きく東側に移動していくこととなった。やがて東西に正帝を立てる慣習が復活し、テオドシウス1世による統一の後に、その二人の息子が東西の正帝となり長男アルカディウスが東方の正帝となった。この後、二度と東西ローマ帝国を統一する皇帝は現れなくなった。

再征服の時代

初期の帝国は、貨幣経済や都市の大部分が崩壊した西ローマ帝国領(イタリア・フランス・スペイン)に比べれば、商工業の中心であった首都コンスタンティノポリスや帝国の穀倉であったエジプトなどを擁して高い国力を保っていた。西ローマ帝国はまもなく滅亡し実態はゲルマン人諸族に領土が分割されるも、名目上はこれらゲルマンの王侯たちも東ローマ皇帝の臣下を名乗った。さらに、ユスティニアヌス1世の治世には一時イタリアや南部スペイン、カルタゴ周辺といった西地中海も領土を加えて最大版図を誇った。有名なハギア・ソフィア大聖堂(今のアヤソフィア)が建てられたのもこの頃である。帝都コンスタンティノポリスは地中海世界有数の大都市として繁栄した。

暗黒時代とギリシャ化

しかしその後、ゲルマンやスラヴの異民族の侵入が相次ぎ、ササン朝ペルシャ帝国との戦争も激化。徐々に領土を失っていく。ヘラクレイオス帝はペルシアとの決戦に勝利し、首都クシテフォンを一時陥落させるも、結果として軍隊と国力を多く損耗するに至った。そしてペルシアに代わって強大化した正統カリフ時代のイスラム帝国に636年のヤルムークの戦いで敗れて、シリア・エジプトを奪われてしまう。そしてついにコンスタンティノポリスにまでイスラム軍が攻め寄せる滅亡の危機に至った。しかし難攻不落のテオドシウスの城壁ギリシャ火薬という当時先端の焼夷兵器を装備した海軍力で二度に渡って撃退する。辛うじて生き残ったが、帝国内はボロボロで、ほとんどの記録が散逸した。
一方で、帝国の公用語も次第にローマ帝国のラテン語からギリシャ語に変化していった。このように東ローマ帝国は、ローマ文化からギリシャ文化の帝国へと少しずつ変化していく。

イコノクラスムとテマ制度

その二度目の撃退の英雄となったレオーン3世の治世にはイコノクラスム(聖像破壊運動)が開始される。結果としてイコン支持派と廃止派の対立で国内は分裂し、さらにローマ総主教との教義上の対立が深刻化する。こうしてローマカトリックと、コンスタンティノポリス総主教をはじめとした4人の総主教からなる正教会は分裂するに至った。兵制と地方制度も大きく変わり、自由農民に土地を与えて兵士を兼ねさせるテマ制が成立した。自分の土地を外敵から守るテマ制兵士たちの士気は高く、軍事力は向上する。

復興と領土拡大

その頃、バルカン半島ではブルガリア帝国が次第に強大化していた。だが内政を再建したマケドニア朝の東ローマ帝国は攻勢に出て、バシレイオス2世がブルガリア帝国を瓦解させてバルカン半島を再統一し、南イタリアやシリアも征服してこのギリシャ化した東ローマ帝国の最盛期をもたらした。先行するアモリア朝からマケドニア朝の諸帝は、それまで戦乱の中で散逸していたギリシャ・ローマの文学や科学の文献を収集し人文科学・自然科学を復興させ、多くの書籍や百科事典が生まれた。また東欧やロシアへの正教布教も進めてギリシャ文化を伝えていった。


11世紀の危機

しかし、兵士たちの貧富の差が拡大することでテマ制は崩壊して帝国の制度は崩れていく。テマ軍区はいつのまにやら有力貴族の支配する独立地域となり、皇帝の専制は過去のものとなる。貴族たちは皇帝権を巡って争い、内乱が頻発する。
おりしも新たな賓客が帝国領土内に現れていた。言わずと知れたトルコ系イスラーム教徒が東からアナトリアに侵入。1071年、ロマノス4世はマラズギルトの戦いでセルジューク朝に大敗して捕虜となり、アナトリアはほとんどが失われてしまう。もうひとつは、西からやってきた「ヨーロッパ人」であった。かつて「ゲルマンの蛮族」と蔑まれた彼らは、軍事的にも政治的にも侮れない勢力となってバルカン半島を侵略する。
有力貴族コムネノス家からアレクシオス一世が登壇し、皇帝の座につくことで辛うじて内乱は収束した。しかしアレクシオス一世がトルコへの援軍をローマ教皇に打診したことが、帝国滅亡の引き金となるあの一団を登場させるのである。

十字軍の登場

史書は記す。「やってきたのはヨーロッパ中の野蛮人だった」
これが第一次十字軍であった。騎士も農民もまぜこぜの一団は、そのまま中東へ進撃し、エルサレムを占領。地中海の権益に新たな勢力として食い込む。特にイタリア海洋都市の進出が目覚ましかった。ヨーロッパと中東の交易によって力をつけた都市群は帝国の経済力を侵食する。
そしてついに1204年、ヴェネツィア共和国を中心とする第4次十字軍によってコンスタンティノポリスは陥落。1264年には復興するとはいえ、もはや帝国の衰退は避けがたくなっていく。

最後の皇帝家パレオロゴス朝は、これまでのローマ各王朝が古代共和制の時代を引きずり必ずしも世襲で地位を継承しなかったのに対し、200年近くその地位を世襲で継承した。翻せばそれは、有力な諸侯が何人も存在した全盛期とは程遠いほど帝国が衰退し、オスマン帝国の権勢に常に潰されそうになりながらやっと存続してきた歴史を現しているとも言えた。
そして、ギリシャ文化の一部は緩やかにイタリアへと伝わり、古典復興運動の一翼を担っていく。

帝国の滅亡

そしてついに1453年、もはやコンスタンティノポリスと一部を残すのみとなった帝国は、それ以外のかつてのアナトリア・トラキアの帝国領をおさえていたオスマン帝国の猛攻の前に滅亡。
最後の皇帝コンスタンティノス11世は、城壁を突破して首都にオスマン帝国が侵入すると、剣を抜き、皇帝の煌びやかな服装を脱ぎ捨て、自ら東ローマ兵と共にオスマン帝国軍へと突撃して行ったという。

「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」

陥落した帝都コンスタンティノポリスは、トルコ語読みのオスマン帝国帝都クスタンティニエ、さらにイスタンブールと名を変え、再び東地中海に君臨する大都としての道を歩みだすことになる。
…だが、もはやこれ以後の地中海に、「ローマ帝国より連綿と継承された正当なローマ皇帝」が君臨することは無かった。

東ローマ帝国滅亡後

帝都陥落後のギリシャ人たちはそれぞれオスマン帝国の支配下で正教会の信仰とギリシャ文化を伝えて、近代のギリシャ独立を待つことになる。また、トルコ人から逃れて西欧に亡命した者も多く、これがルネッサンスの興隆に大きく貢献したと考えられている。

パレオロゴス家の末裔は、現在でもヨーロッパ各地に何人か存在する。その家系図は信憑性の高いものから胡散臭いものまで多数あるが、東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)の請求者を名乗る者も何人かいる。
そのうちの一人、エンリコ・コンスタンティノ・パレオロゴ(アンリ・コンスタンティン・パレオロゴ)は皇帝テオドロス2世の傍系末裔とされ、デヴィ夫人らとの交流で来日したことがある。

いくつかの国々が、その後の歴史において東ローマ帝国の後継者を名乗った。東ローマを滅ぼしたオスマン帝国のスルタンであるメフメト2世は、「カイセリ・ルーム」すなわちローマ皇帝を自称した。ロシアでは、モスクワ大公国イヴァン3世が最後の東ローマ皇帝の姪を妃に迎え、正教の重要拠点であることも根拠として後のロシア政府はしばしば第三のローマを名乗った。近代にギリシャが独立すると、「メガリ・イデア」すなわちギリシャ人の帝国であった東ローマ帝国の領土を復興・統一しようという主張が生じた。

創作において

ヘタリアのギリシャさんの母親がビザンツ帝国ではないか、と思しき描写がある。ただしこれは古代ギリシャの可能性もある。

・「将国のアルタイル」に登場する都市国家、ポイニキアのモチーフ(ギリシャ風の衣装、建築物、大城壁、古代帝国の帝都)の一つがコンスタンティノポリスとみられる。

・日本では塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」が、ビザンツ滅亡を扱った小説として知られている。

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