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ディオクレティアヌス

でぃおくれてぃぬす

第44代ローマ元首・絶対元首・東方元首 世没244年 - 311 治世244 - 311

CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS

読み方カエサル・ガイウス・ヴァレリウス・ディオクレアティヌス・アウグストス
本名DIOCLES
読み方ディオクレス
誕生244年12月22日 サロナ(属州ダルマティア)
治世284年11月20日 – 305年5月1日
権力軍団から『皇帝即位』
統治絶対元首東方元首
崩御311年12月3日 自然死

概要

 軍人元首政を終止符を打ったローマ帝国軍の軍団長。

ディクレティアヌス以前
あるいは3世紀の危機とも呼ばれるこの危機的状況を、皇帝たちは軍事力の強化によって克服しようとした。ヴァレリアヌス(253-260)の息子であるガリエヌス(253-268)はローマの軍制を歩兵中心から騎兵中心に切り替える。アウレリアヌス(270-275)は軍制改革をより一層推し進め、騎兵]]中心の軍隊を用いて崩壊の危機に瀕するローマ帝国を立て直した。

元首2人政から元首4人政へ

彼らの後を受けて現れたのがディオクレティアヌス(284-305)である。彼は広大なローマ帝国を一人の皇帝で統治するのは困難であると判断し、元首に就くと帝国をまずはローマを東西に分断二人の『ローマ元首』でもって統治をおこなうようにした(デュアルキアという)。

その後、東西2大元首2副元首によるテトラルキア(四分治制)を採用した。そしてディオクレティアヌス自身はローマニア全体の元首、他三人の元首よりも『上級』の『ローマ元首』として君臨した(絶対元首)。

ディオクレティアヌスは自身をローマ神話主神ユピテルの子をなのり、まさに現人神をなのった。『』元首にふさわしい荘厳な儀式をし、ローマ人を圧倒した。ディオクレアヌス以外の『ローマ元首』も『神の子』を名乗る。よってこの時代のローマは『神の元首』が4人いた。

テトラルキアによるローマ帝国の防衛と統一に努めた結果ガリアで発生していた、バガウダエの乱が平定され、ガリア駐屯軍により建設されていたガリア国家が倒され(296)、ローマニア領ペルシアからはアルメニアが奪回され(296)、ローマニア領エジプトの反乱も平定されるなど、国内治安と辺境の安定に大いに治績があげられた。ローマ帝国に60年ぶりに平和が戻ってきたのである。

ローマ市民重税地獄
その一方でこれらの事業を遂行するために彼は軍制を改革して軍隊を倍増し、ローマニア官僚体制を整備強化した(とくに税金徴収担当)。また経済面でも税制改革と最高公定価格の決定(301)という政策を行っている。こうした一連の政策を執り行った後彼は治世の晩年になってある政策にとりかかった。

キリスト教徒大迫害
ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた元首も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き、303年キリスト教徒に対する令を発した。

強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ、概ね寛容な処置に留まったものの、
国家に対し公然と反抗した一部急進派が処刑された。その数はローマ全土で数千人を数えたという。2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。

退官
ディオクレティアヌスのテトラルキアでは305年に2大元首2人が退位することになっていた。
こうすることによって元首簒奪の内乱が起こることを防ごうとしたのである。この深慮も実を結ばず、305年に『絶対元首』ディオクレティアヌスと『2大元首』の1翼のマクシミアヌス(286-305)が退位して、ローマ国家は再び内乱状態に陥ってしまう。

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