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ディオクレティアヌス

でぃおくれてぃぬす

ローマ皇帝(44代)このアウグストゥスから,ローマ統領=ローマ皇帝が完全に就くことになった、元老院議員がローマ統領になることはほぼ不可能にしたことから,専制君主とよばれる。もしかすると第一人者政府有権者世界中党の党首領だったのかもしれない。

CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS

読み方カエサル・ガイウス・ヴァレリウス・ディオクレアティヌス・アウグストス
本名DIOCLES
読み方ディオクレス
誕生244年12月22日 サロナ(属州ダルマティア)
治世284年11月20日 – 305年5月1日
権力軍団から皇帝即位
統治連続執政官
崩御311年12月3日 自然死

最高司令官就任21回
ローマ統領21回
前執政官
財務長官
内務長官
ゲルマニア制服官
ガリア制服官
ペルシア制服官
イスラエル制服官
ダルマティクス制服官
最高市民長官21回
エジプト最高司令官
神ヨウィウスの最高聖職者
国父
第一人者

第一人者政府有権者世界中党執政官(ディオクレティアヌス&マクシミアヌス→ガリエヌス&セウェルス→コンスタンティウス&マクセンティウス)


 ローマ戦国時代を終止符を打ったローマ帝国軍の軍団長。あるいは3世紀の危機とも呼ばれるこの危機的状況を、皇帝たちは軍事力の強化によって克服しようとした。ヴァレリアヌス(253-260)の息子であるガリエヌス(253-268)はローマの軍制を歩兵中心から騎兵中心に切り替える。アウレリアヌス(270-275)は軍制改革をより一層推し進め、騎兵中心の軍隊を用いて崩壊の危機に瀕するローマを立て直した。彼らの後を受けて現れたのがディオクレティアヌス(284-305)である。彼は地中海のローマ共和国のアウグストゥスに就くとローマ統領をディオクレティアヌス自身が連無期限に就任するように改革し、その後副官のマクシミアヌスやガリエヌスもまたローマ統領を無期限でし就任することにした,二人の元首でもって統治をおこなうようにした(デュアルキア)。その後、東西2大元首2副元首によるテトラルキアを採用した。これにより元老院議員がローマ統領になることは、ほぼなくなった。これが専制君主とよばれるゆえんであった。もっと言うと第一人者政府有権者世界中党政府の統治だったのかもしれない。なので,ディオクレティアヌスは党の首領である。ディオクレティアヌス自身は帝政ローマ共和国全体の元首、他三人の元首よりも『上級のローマ元首として君臨した。ディオクレティアヌスは自身をローマ神話の主神ユピテルの子をなのる。『神ユピテルの息子』元首にふさわしい荘厳な儀式をし、他の元首を圧倒した。ディオクレアヌス以外の元首も『神の子』を名乗る。テトラルキアによるローマ帝国の防衛と統一に努めた結果ガリアで発生していた、バガウダエの乱が平定され、ガリア駐屯軍により建設されていたガリア帝国が倒され(296)、ローマ領ペルシアからはアルメニアが奪回され(296)、ローマ領エジプトの反乱も平定されるなど、国内治安と辺境の安定に大いに治績があげられた。ローマ帝国60年ぶりに平和が戻ってきたのである。


その一方でこれらの事業を遂行するために彼は軍制を改革して軍隊を倍増し、ローマの官僚体制を整備強化した(とくに税金徴収担当)。また経済面でも税制改革と最高公定価格の決定(301)という政策を行っている。こうした一連の政策を執り行った後彼は治世の晩年になってある政策にとりかかった。ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた元首も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き、303年キリスト教徒に対する令を発した。強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ、概ね寛容な処置に留まったものの、国家に対し公然と反抗した一部急進派が処刑された。その数はローマ全土で数千人を数えたという。2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。ディオクレティアヌスのテトラルキアでは305年に2大元首2人が退位することになっていた。こうすることによって元首簒奪の内乱が起こることを防ごうとしたのである。この深慮も実を結ばず、305年にディオクレティアヌスと1翼のマクシミアヌス(286-305)が退位して、ローマ国家は再び内乱状態に陥ってしまう。

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