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プロフィール編集

フルネームCAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS
読みカエサル・ガイウス・ヴァレリウス・ディオクレアティヌス・アウグストス
本名DIOCLES(ディオクレス)
誕生244年12月22日 サロナ(属州ダルマティア)
治世284年11月20日 – 305年5月1日
権力軍団から皇帝即位
統治連続執政官
崩御311年12月3日 自然死

概要編集

ダルマティアの貧民層出身。ローマの軍制を歩兵中心から騎兵中心に切り替え、騎兵中心の軍隊を用いて崩壊の危機に瀕するローマを立て直していた時期であったが、彼は軍人としてローマ帝国軍の軍団長の地位までのし上がり、先代のヌメリアヌス帝の死後、軍に推戴されて小アジア西北のニコメディアで即位、皇帝となった。


ローマ帝国の領土は広大で、帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難と考え、「四分統治制」を採用。ニコメディアを拠点に東方を治める正帝として統治することになった。また、皇帝絶対性を確立するため宮廷儀礼はペルシア風の方式を採用、自ら「ユピテルの代理者」と称した。


テトラルキアによるローマ帝国の防衛と統一に努めた結果、ガリアで発生していたバガウダエの乱が平定され、ガリア駐屯軍により建設されていたガリア帝国が倒され(296)、ローマ領ペルシアからはアルメニアが奪回され(296)、ローマ領エジプトの反乱も平定されるなど、国内治安と辺境の安定に大いに治績があげられた。ローマ帝国は60年ぶりに平和が戻ってきたのである。


その一方でこれらの事業を遂行するために彼は軍制を改革して軍隊を倍増し、ローマの官僚体制を整備強化した(とくに税金徴収担当)。また経済面でも税制改革と最高公定価格の決定(301)という政策を行っている。こうした一連の政策を執り行った後、彼は「キリスト教大迫害」を決行。当初は、ローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいとするなど、融和的な政策をとっていた彼であったが、反逆行為が多発したことで不信感を抱いていたことが背景にある。


彼は健康を崩したこともあって305年に退位。サロナ近郊のアスパーラトスに宮殿を作り、311年に亡くなるまでそこで過ごした。なお、ローマ帝国の「キリスト教大迫害」はこれ以降行われておらず、先述の「キリスト教大迫害」を「最後の大迫害」としている。


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