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騎兵

きへい

騎兵とは馬等の騎乗可能な動物に騎乗し、戦闘を行う兵種。機動力や衝撃力を生かした戦闘を行う。
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「騎兵とは、これだ」

秋山好古は、講義で騎兵について説明する際、素手で窓ガラスを叩き割り流血した自らの拳を示して、動物を使う騎兵の打撃力と脆弱さを説明した(司馬遼太郎坂の上の雲』より)。


概要編集

英語では「Cavalry」「Horsemen」あるいは「Cavalryman」「Dragoon」「trooper」など。

騎兵とは、馬等の騎乗可能な動物(ラクダ、ゾウ等)に騎乗し、そのまま戦闘を行う兵種を指す。日本語では騎士、騎馬ともいう。


武器の他、寝具・食料などの荷物を背負っている歩兵と違い、軽装である。

(ただし、現代の軍隊の歩兵は中世と比べれば自動化され、全て軽装歩兵と言える。)

歩兵より高い位置にいる馬上の利、重量を活かした戦闘を行う。


大別して軽装の機動力を生かし、偵察や奇襲、追撃、背面や側面に対する攻撃を行う軽騎兵と重装備による高い防御力を生かし、敵陣に対して突撃を行う正面衝力を担う重騎兵の2種に分けられる。

また近世に入ると両者の中間的な扱いの竜騎兵が登場した。さらに大砲を引っ張って素早く行軍する騎馬砲兵という珍しい兵種も取り入れられた。


特徴としては機動力と打撃力にあり、少数の騎兵隊でも十分に軍を混乱させる効果はあった。弱点としては騎乗中は物影に隠れるということが不可能であり、防御力がほぼないということであった。


類似する兵種として移動は騎乗で行い、戦闘時には降りて徒歩で行う「下馬騎士(乗馬歩兵)」が存在する。これは鐙が発明される以前(鐙が無いと馬から落ちてしまう)、あるいは指揮官の判断により奇襲を目的とした作戦、地面がぬかるんでいる時などに行われた。

歴史編集

騎兵は、紀元前から近世にかけて、機動力や突破力、衝撃力から、戦場の花形として活躍したが、何より本能に従う動物に頼らなければならないという重大な欠陥(※特に先端恐怖症が致命的で、どんなに訓練をしても槍衾に突っ込む様なことは絶対にできない)があった。

また車など発達による自動化に伴い、現代の軍隊では儀礼的な役割、警備などに落ち着き、主力として戦場に投入されることは無くなった。

発生編集

古代より馬は、軍用獣として用いられたが、はじめは馬車の上に兵士が立って弓を射る戦車(チャリオット)が基本で現在のように馬に人が騎乗する兵種が発達するのは、後になってからである。

この様子は、エジプトファラオ(皇帝)ラムセス大王(ラムセス2世)がカデシュの戦いを描いたアブシンベル神殿の壁画などで見られる。この戦いは、歴史上、はじめて公式の戦闘記録が残された戦闘として言われ、戦車部隊同士が激しく戦った。


馬の上で戦闘を行うのが困難なのはいうまでもないが、紀元前865年頃のアッシリア騎兵のレリーフ(トリノ、マダマ宮殿所蔵品)から見ると当時、足を固定する鐙、鞍、鞍布、拍車なども発明されていなかった。

(ただし芸術家による創作の可能性も指摘されており、史跡として引用するに値しないという意見もあり)


この時代から乗馬に慣れ、馬を養うことが出来るようなイラン高原や中央アジアの遊牧民だけが騎兵を用いて戦った。

高速で接近しひとしきり矢を放つとそそくさと逃げてしまう弓騎兵は、誇張抜きに当時最強の戦闘ユニットであり、対抗する手段は同じ弓騎兵以外に存在しなかった。

一方で弓騎兵は、ただでさえバランスの悪い馬上で精密に弓を構えるという離れ業を要求されるものであるため、幼い頃から日常的に馬上で生活する遊牧民族以外に養成は困難であった。

農耕民族における騎兵は槍を投げる、槍で敵歩兵を追い込む役割が与えられた。これらは全て主力の重装歩兵(ホプロン)に次ぐ補助的なものであった。


しかし紀元前490年頃、メディア王国で大型馬ニサエ馬(Nisean horse)の品種改良が進み、大きな鎧を装備した騎兵が発達した。中国の戦国時代(紀元前403年~紀元前221年頃)やアレキサンドロス大王の遠征(紀元前336年~紀元前326年頃)で、これら騎兵を主力とした戦闘が繰り広げられ、軍事技術の大きな転換点となった。

特にローマ共和国とハンニバルのカンナエの戦い(紀元前216年8月2日)、ローマ共和国とパルティア王国のカーリーの戦い(紀元前53年)で騎兵は目覚ましい活躍を果たし、歴史に残された。

逆に戦車(戦闘用馬車)は、敵を突破する役割を奪われ、パレードなどで用いられるようになる。

紀元前225年、北イタリアで行われた古代ローマ共和国とケルト人のテラモンの戦いがヨーロッパにおける戦車の最後の記録となり、それ以降は時代遅れとなった。


ただし、ローマ帝国は広大な領土を移動するにあたり、街道を整備し、歩兵に荷物を携行させて行軍するというシステム(マリウスのロバ)を採り、重装歩兵を主力、騎兵は偵察、前哨戦などあくまで補助的に過ぎなかった。

これは馬の餌、不慣れな場所に神経質な動物を連れて行くことなど、莫大な負担を行軍に強いるためであり、何度も騎兵に手痛い目にあっても改革することはできなかった。しかし騎兵を過小評価していた訳ではなく、素早く行軍するために負担を減らす目的を選んだだけで敵を殲滅する切り札としても騎兵を温存した。


実際上述した遊牧民族は、対処が不可能な騎射戦術を習得していながらも、馬の兵站負荷に耐えるため肥沃な土地を回遊することを迫られており、確固たる国家基盤の設立は難しかった。つまり戦術では鬼のように強くても戦略的に多大なハンデを負っていたのである。


モンゴル帝国の台頭、鎌倉武士の事例編集

13世紀に入って、モンゴル帝国の急激な版図拡大が始まる。

遊牧民族の専売特許である大規模な弓騎兵の運用のみならず、情報戦でも馬の力を発揮した。農耕民族の挙動は一切がモンゴル民族の把握するところとなり、野戦の準備をすれば順当にすり潰され、籠城の支度をすれば迂回されて補給路を断たれる八方塞がり。その結果モンゴルの伸長(13世紀~14世紀)は目を見張るものがあり、世界史に大きな足跡を与えた。

ただ「帝国」と称されつつも顕密な政治体制を拡げていたというわけではない。

モンゴル民族の戦争目的はあくまでも遊牧地の確保と税収であり、現地民族の統治や開拓にはほとんど興味を示さなかった。「帝国」というよりは「なわばり」とでも呼んだほうが実態に即しているだろう。


日本に於いても一応騎兵は実戦的な戦力として運用されており、武士は弓騎兵を常用した。

しかしながら上述したように、弓騎兵の大規模運用は本来遊牧民族の特権である。農耕を生業とする大和民族に騎射技術の維持は困難である。

その困難さにも拘わらず武士が騎射戦法を維持出来たのは、当時発生した戦闘の規模があまり大きくなかったためであると見られている。応仁の乱により戦闘の規模が拡大するに従って、十分な数を用意できない弓騎兵の戦術価値は低下、戦闘の主体は足軽へと移行していく。


欧州に於ける迷走と復職編集

広大な草原地帯を持つ中国、中央アジアに比し、ヨーロッパは貧弱で馬も高価になり、特に騎兵用の大型馬を相当数飼育することは難しかった。またローマ帝国が崩壊(476年~480年)すると、ローマ軍のように強大な武装勢力を維持する基盤も消滅し、勢力ごとの規模が大幅に縮小、歩兵の装備も脆弱になり、数を揃えることもままならなくなった。これらの理由から少数の騎兵の価値が増し、社会的にも高い地位を占めるようになった。

このような環境下において騎兵は、その維持コストの高さから貴族の資産規模を誇示するための象徴的なユニットとして発達し、単なる戦闘員ではなく美徳や名誉を帯びる身分として「騎士」が生まれ、また「騎士道」も発達、文化的には最盛期を迎える。

一方で実戦的にはむしろ迷走もいいところ。高価な装飾品でジャラジャラと飾り立て、矢すら防げるか怪しい鉄板を被せられたこの時代の騎兵は、最大の存在意義である速度を失った。

だがこの時代の戦争は、貴族同士の決闘ごっこに農民や傭兵がつきあわされているに過ぎなかった。寄せ集めの兵士らは騎兵がちょっと威嚇すれば蜘蛛の子を散らすように逃げてしまうし、「長射程の弓矢を撃ちまくる」とか、「木柵を立てて足を止めさせる」といった「本気」の戦術が用いられることも少なく、進化の欠陥が発掘されるのはしばらく後になる。


次第にローマ帝国崩壊後の混乱が止み、ルネサンス期(13世紀~16世紀)に入ると火砲の発達や経済状況が改善され、騎兵の役割も変化が訪れ始めた。

ルネサンス期は、ローマ崩壊後の秩序が回復した時代であり、二つに分かれた旧帝国領、ヨーロッパと西アジア(イスラム教圏)の間で交易が盛んになり、経済が振興されると共に火薬・羅針盤・活版印刷術など中国の先進的な技術が流入し、ヨーロッパでは大航海時代の原動力にも繋がる新しい活気を呼び込む時代となった。


そして国際情勢も変化、英仏の百年戦争は、欧州の貴族らが長らく避けてきた血で血を洗う殺し合いの様相を呈し、恐竜的進化を遂げた騎兵は実戦の洗礼を受けることになる。

その象徴的事例が、イングランド軍とスコットランド軍によるバノックバーンの戦い(1314年6月24日)と、イングランド軍とフランス軍によるクレシーの戦い(1346年8月26日)である。

バノックバーンの戦いにおいて、イングランド軍は騎兵戦力で圧倒的な優位を確保していたが、スコットランド軍が落とし穴などの野戦築城と槍衾によって正面戦闘を試みた騎兵を完全に封殺、一方のスコットランド軍は少数の騎兵の機動力を有効に活用、脆弱な弓兵をピンポイントで襲撃して支援を防いだ。

そして大いに学びを得たイングランド軍は、クレシーの戦いにおいて野戦築城を導入、弓兵の前方に木柵を設置して騎兵の前進を妨害した。まんまと木柵に突っ込んで足を止められたフランス軍騎兵隊は一方的に射的の的になる。


オスマン帝国では、皇帝直属の親衛隊として銃を装備した歩兵からなるイェニチェリが編制され、銃や大砲の役割が騎兵を上回るようになった。1453年5月29日にはオスマン帝国は、東ローマ帝国を滅ぼしたがコンスタンティノープル攻略に使われたウルバンの巨砲が有名である。

(しかし実際のウルバン砲は命中性・威力共に問題にならず、あまり有効ではなかった)

スイスでは、歩兵を守るために地面に固定されていた杭(パイク)を手で持ち歩くようにしたパイク歩兵方陣が考案され、パイクを装備した歩兵100人が10×10の方陣を組んで騎兵を撃退するという戦法によりイタリア戦争(1494年~1559年)で活躍した。

(この時代の歩兵の方陣は、まだ素早く方向転換でき、騎兵を寄せ付けなかった。)

15世紀にはロングボウより習熟が簡単な大砲やクロスボウが普及し、ヨーロッパでは歩兵部隊が主力になった。スペインのテルシオ(歩兵の隊形)の登場により、騎兵は補助的な役割に後退した。


歩兵の役割が向上したのは、火器の発達だけでなく騎兵には熟練まで時間がかかり、馬の飼育にも予算を要したのに対し、銃兵は安価な費用で補充できる点にあった。

小型の火砲、ピストルやハンドキャノンなどを装備した騎兵なども発達したが、時代の流れには逆らえなかった。


だがナポレオン戦争(1803年~1815年)では、歩兵部隊はどんどん兵員数が増え、隊形は巨大化し、正面への突撃はほぼ間違いなく失敗したが、側面と後背は素早く反応することが出来ず、騎兵の攻撃に脆弱になった。また大砲は、動きの遅い歩兵部隊には致命的な打撃を与えることができたが、騎兵には弱かった。

このため騎兵の価値が再び上昇し、欠かす事の出来ない役割を果たしていった。


近代騎兵編集

19世紀中盤から後半にかけて起きた後装式小銃の登場と進化、19世紀末から20世紀初頭にかけての機関銃の発明と採用の拡大で、背が高く装甲を持たない脆弱な騎兵は機関銃の良い的に他ならず、次第に活躍の場を減らしていき、主に敵歩兵への奇襲や掃討に用いられるようになった。


この時代の騎兵は、4つの種類に別けられる。

  • 重装騎兵(Cuirassier)

16~17世紀に発達し、20世紀初頭までヨーロッパの一部の国が所有していた。ヘルメット、ボディアーマーなどで身体の4分の3を保護している。メインの武器は、サーベルでありピストルは補助的な役割を果たしたが共に敵に密接した状態で使用し、ピストルで狙撃するなどということはなかった。

時代が下がると鎧の部分が少なくなり、最終的には消滅した。

  • 竜騎兵/中騎兵(Dragoon)

歩兵を馬で移動させるという兵種だが、騎兵としても扱われる。剣と火器で戦うが重装騎兵より大きなライフルで武装しており、ドラグーンという名前も装備していたラッパ銃の名前に由来した。

  • 軽騎兵(Hussar)

語源はポーランドの重装騎兵が由来とされているが定かではない。銃を装備した軽騎兵を指した。

  • 軽騎兵

単にLight cavalryと呼ばれる。剣や槍で武装した騎兵。


これらは、20世紀初頭には、日露戦争で秋山好古が当時世界最強のコサック騎兵を打ち破る為、馬によって有利な地形に移動し、馬から降りて機関銃によって騎兵の猛攻に耐える。という戦術を編み出し、なんとか撃退すること成功する。しかし、この成果が皮肉にも騎兵の評価を下げ、騎兵の縮小に繋がっていく。


第一次世界大戦におけるトラックの普及と、なによりも特性を同じくする戦車を代表とする装甲戦闘車両の登場で戦場における活躍の場を取って代わられるように失い、騎兵は戦場から姿を消していった。

もっとも第二次世界大戦の頃までは各国で少数の乗馬騎兵が存続しており、歩兵に対して突撃を行い戦果を挙げた事例もいくつかある。この時代に銃が自動連射式になったと言っても弾薬を無尽蔵に戦場に供給できるのは、アメリカやソ連などの大工業国に限られた。また現代ほど道がアスファルトやコンクリートで舗装されていた訳ではなく、馬の方が車より足回りに利があった。そのため現実的には騎兵が活躍する機会がなかった訳ではない。

ドイツのポーランド侵攻時、「ポーランド軍はドイツ戦車相手に騎馬突撃を行い玉砕した」などという噂も流布されているが、これは嘘である。これはドイツ戦車の近くにたまたまポーランド騎兵の死体が転がっているのを見て、ドイツの従軍記者が脚色したものらしい。当時実際にポーランド騎兵による突撃が行われているが、相手は主に歩兵であり、成功した事例もある。

ブラウ作戦ではイタリア軍のサヴォイア竜騎兵連隊600名が、2000名のソ連軍に対しサーベル突撃を敢行、勝利している。これがヨーロッパにおける最後の大規模騎兵突撃の成功例となった。世界史上最後の騎兵突撃は日本陸軍の第4騎兵旅団が老河口作戦で行なったものである。


現在では騎兵は戦闘に用いられることはなく、もっぱら儀礼的用途か、警備用に用いられる。


現代における騎兵編集

現代においては、主に装甲車(装甲兵員輸送車または歩兵戦闘車)やヘリコプターを用い、

迅速に展開、撤収する部隊に「騎兵」の称が用いられる。名誉称号的に戦車に改編した師団などが騎兵師団を名乗り続けることもある。


また、名称としての存続とは別に、自動車が通りづらい狭路や悪路での治安維持活動においては、

本来の意味での騎兵が未だに重要な役割を果たしていることがある。


騎乗している事からイメージしやすい踏破性、小回りの良さの他、

・騎乗者が高所から周囲を見渡すことができる

・騎乗者がわき見・よそ見をしていても、騎乗動物が自分の判断で回避してくれるので事故が起きにくい

・騎乗動物の巨体が威圧感を生み出す

・移動手段に持ちいるのが生物であるため、爆破など車両に対して行われるような破壊活動の対象となることがほとんどない

・・・等々、様々な利点が存在するからである。


また、これらの利点から山野における遭難者の捜索に駆り出されることもある。


騎乗動物について編集

実在する騎兵は、を騎乗動物としていることが一般的で地域によってラクダやゾウが騎乗動物として選ばれるが、創作物においては、馬に限定されず、大型の犬や鳥等、馬の替わりになる様な動物、中には恐竜ドラゴン等の想像上の動物なども騎乗動物として登場する。

更に、馬等を模したロボットや、サイボーグ化された動物に騎乗するもの、武装を施したり、装甲で強化したバイクに搭乗したものを、騎兵と称する場合もある。


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