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概要

「もののふ」とも読む。武士とは、平安時代中期(10世紀)から明治時代初期(19世紀)にかけての日本に存在した共同体の成員のことを指す。

武士内部でも身分は細分化されており、上級武士と下級武士の身分差が非常に大きい。家格や役職のほか、官位や家柄などで表される複雑な序列がある。上級武士の最上層は鎮守府将軍征夷大将軍、あるいは近衛大将、ひいては太政大臣等となって、日本国の軍事力を束ね武家政権を築く存在となった。このような上級武士を特に武家、もしくは軍事貴族と呼ぶ。

武士のもとで働いた武家使用人(中間・小者など)や足軽は農民などの家に生まれた者も多く、足軽の世襲化が進んだ江戸時代にも武士には入れられないことがあったらしい…。

とは、平安時代において、下級官職を持つ役人の事で、のちに武士とほぼ同義語になった。狭義では、先述の武家使用人の一種類、武士に仕え補助戦闘などを担当した者(いわゆる供侍)を限定して指す。「さむらい」で武士と侍の両方を意味し、史料上の「士」はさむらいと読む。

武装は時代によって異なる。旧世代の槍や騎馬は鉄砲の登場により没落し、泰平の時代になると刀と剣術(および捕物道具)が残った。

防人

663年(天智2年)、白村江の戦いで新羅連合軍に惨敗した朝廷は九州北部から中国地方にかけて朝鮮式山城を築き、大宰府に政庁を置いた。このとき、各地の山城に配置された兵士が防人である。
彼らが後世の武士とちがうのは、動員された兵士が食糧をみずからの手で賄わなければならないうえ、何の報酬も与えられず強制的に集められたという点である。

平安時代

※以下、武士に関する事項のみ。その他の事項は各時代の項目を参照。
前期には、軍の兵士は軍団への徴兵で、士官は官僚となった貴族で確保していたため、まだ武士と呼べる存在はいなかった。
その後、朝廷の軍事活動が下火になり、その一方で地方の有力者がしばしば治安を乱すため、対抗手段として有力者やその従者による弓騎兵を主体とした機動力の高い部隊で治安維持を行うようになる。
また、比較的下級の貴族が地方に土着して、役所(国衙)の役人(官人)や荘園の管理者(下司など)となり武装するようにもなった。
また、朝廷の貴族の中にも、平氏源氏などの軍事関係を家職とする家系が現れる。
……このように複雑な過程を経て武士が発生したため、その起源についても学者の間で諸説ある。

武士の中でも平清盛等の太政大臣の位が与えられたものは貴族の仲間入りを果たしている。

そして、地方での有力者間の抗争や、中央での貴族間の政争を経て、後期に桓武平氏の一族である伊勢平氏が覇権を握り、平清盛が初の武家政権である平氏政権を築き上げる。

なお、僧兵は武士ではなく、実務担当の僧侶(堂衆)が武装したものだが、のちには次第に武士との違いが小さくなる。

軍装の清盛



鎌倉時代

平氏政権を滅ぼした源頼朝の勢力が、貴族としての家政機関を原型として鎌倉幕府を樹立する。初期には東国など国内の一部にしか勢力が及んでいなかったが、承久の乱でそれまでの最大勢力であった院(上皇・法皇とその近臣)に対して優勢になり、全国的に力を及ぼすようになる。

当時の武士は、幕府の将軍に仕える「御家人」と、その他の武士に分かれていた。ただし、御家人でない武士にも、末期の元寇を契機に幕府の支配力が及ぶようになる。
また嫡子相続という制度はできておらず、財産を平等に分配しつづけたため彼らの生活は時を経るたびに窮乏を極めた。そのため、幕府は苦肉の策として徳政令(借金を踏み倒してもいいという法令)を何度も発布し、当然ながら幕府と武士の評判は悪くなった。(室町幕府もこの政策は踏襲している)
農民と武士の境界もあいまいで、彼らの多くは普段の生活では農地を耕し、いざことがあれば武装して戦に赴くという半農半武だった・・・というのが依然の定説だが、最近ではだいぶ怪しくなっている。
少なくとも当時、貧乏で自分も畑を耕していた「武士」や、武装して自分も戦争に赴いた「農民」が入り混じっていたことは確かなようだ。

平安中期からこの頃までの武士は、大を着て太刀を持ってに乗るという、一番古典的なイメージの姿をしている。

亡霊



南北朝室町時代

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、武士も朝廷で一括支配する事を試みたが、武士に対する軽視が災いして、足利尊氏北朝を擁立して離反してしまう。尊氏が開いた室町幕府は、南朝と戦うため(と、味方の武士の離反を防ぐため)に朝廷(北朝)の支配権を幕府側に次第に吸収していき、貴族や寺社に仕えるごく少数の武士を除き、すべての武士を支配下に置くようになる。

当時の武士は、各国を支配する守護大名の支配下に置かれる事が多かったが、幕府に直属する「奉公衆」なども存在した。また、農民や町人の富裕層が家来を引き連れて武士化する事も多くなる。
 武士の装備も従者を率いた集団戦寄りになり、鎧も徒歩に適した胴丸などに変わる。

高師直



戦国時代

守護大名は次第に幕府のコントロールを離れ、または守護代・国人などに打倒され、戦国大名が現れる(ただし、国人の勢力が乱立していた地域も多い)。下剋上の時代ではあったが、武士の勢力は家臣団次第でもあったため、武士以外からのし上がった者は非常に珍しい(その希少な例が豊臣秀吉斎藤道三も父からの二代がかりでようやく一国を支配できた)。

当時は庶民も普通に武装していたため、武士と平民の境目が一番あいまいだった時代かもしれないなお、この時代に登場した足軽は、武士と同様に含まれることはあまりなかったという。火縄も用いられるようになり、鎧が徒歩戦闘に適し防弾性能をそなえた当世具足に変わる。

真田昌幸



江戸時代

江戸幕府が成立して、武士が「百姓」「町人」と並ぶ身分として確定された。

……と言い切れれば楽なのだが、武士も「将軍」を頂点として、その下に、大きな領地を持つ「大名」・将軍直属の「旗本」「御家人」・大名や旗本に仕える武士(将軍から見ると「陪臣」だが、大名並みの領地を持つ者も含む)・武士に入れられない「足軽」・その下の「武家奉公人」がある。そのほか、武士と一般人の中間的な扱いを受ける「郷士」や、主君を持たない「浪人」も存在した。

つまりは、武士が官僚化していくと言われる時代であった。理由としてはもともと徳川氏の体制が、戦闘型組織ではなく、縦割り型組織だったと言われていることに始まるらしい。 よって武士のたしなみとされたかぶき者ばさら衆道というものが、受け入れられなくなっていた。侍=役人(つき従うの意味)と同じになるのはこの時代からである。

武士の装備は戦国時代のものを概ね引き継ぐが、実際の戦争がない時代が続き、予備軍としてのみ存在し続けるうちに、戦力としての質は下落を続けていた。武士としての倫理を構築する必要に迫られ、「武士道」が登場した時代である。

武士の経済については、将軍や大名から所領となる知行地を分与されるだけでなく、切米取りという給与の与え方が取られた。切米取りは「切米」もしくは「蔵米」ともいう。下級武士の中でも、最下級にあった武士・御家人たちは知行となる土地を与えられず、「蔵」に収められた米を与えられるのが主流だった。彼らは、毎年、自分に与えられる米の収穫高を記した「切符」のようなものを与えられ、米をあつかう商人に「米」を受け取りに行くのである。(まぁ、大概の場合、「米」を現金に換える武士が多かったのだが・・)。時おり、時代劇で見られる「三十俵二人扶持」などの扶持を与えられる下級武士がこれにあたるのだが、当然ながら生活は苦しくアルバイトにいそしむ武士が多かったらしく、中には「武士」としての身分を富裕な町人に売り払う者もいた。(有名どころでは坂本竜馬の実家は郷士株を買っており、逆に岩崎弥太郎の父は郷士株を売り払っている)

揃い踏み



幕末~明治時代

幕末には、戦国時代とあまり変化のない装備では西洋列強の軍に対処できない事が明らかになり、幕府や西国諸藩は軍事改革を行う。庶民や足軽出身者が将兵として活躍するようになり、武士の存在意義にひびが入る。

そして版籍奉還により、すべての武士は家禄(主君から武士の家に与えられる給与)を(公債を付与される代わりに)取り上げられ、廃藩置県で大名も藩主の座を失う。大名や新政府の高官などは華族となったが、その他の圧倒的多数は士族となり特権も与えられなくなったため、官吏などの公務系に奉職するか、商売や農業で身を立てることを強いられた。

政府による一方的な特権取り上げに不満を持った士族は佐賀の乱や西南戦争のような反乱を起こしたが、日本陸軍の圧倒的な兵力により鎮圧された。

武力闘争を放棄した不平士族は自由民権運動の担い手として農村指導者層と結び、国会開設と立憲政治を政府に要求していくこととなる。

LAST SHOUGUN



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騎士
人名: 武士の名は「苗字」「姓」「輩行名」等かなり複雑な仕組みになっている。詳細はこちら

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