概要
日本史の時代区分の一つ。中世に含まれる。鎌倉武士が台頭し、後世鎌倉幕府と称される武家政権による統治が布かれた時代である。始期については1192年説がよく知られているが多くの議論がある(後述)。
定義
「鎌倉殿」と呼ばれた源頼朝が創始した鎌倉に拠点を置く武家政権が東国、後には日本全域を支配した時代。始期は鎌倉幕府そのものの成立年代に諸説がある(段階的に統治機構等が整備されたため)ことから頼朝が鎌倉に拠点を定めた1180年から征夷大将軍に任命された1192年までのいずれかとされる。終期は鎌倉及び六波羅探題等の拠点が新田義貞・足利尊氏らによって陥落し幕府が崩壊した1333年。
政治
初期は初代将軍・源頼朝以降の鎌倉殿率いる武家政権と治天の君が統べる京都の公家政権とが並立していた。1221年の承久の乱以前までは朝廷の実権を握る後鳥羽上皇が幕府に対しても一定の発言権を持っていたが、乱が鎮圧され上皇が隠岐に流されて以降は公家政権に対して六波羅探題を置いた武家政権側が優位に立ち、守護・地頭を通じた全国支配を行った。朝廷ではその後、第88代天皇・後嵯峨上皇の晩年、次代の天皇を決めるに際し、上皇は幕府の裁定を仰ぐことで持明院統(第89代天皇・後深草天皇の系統)と大覚寺統(第90代天皇・亀山天皇の系統)が皇位継承をめぐって対立する遠因を作ることとなった(笠原英彦『歴代天皇総覧』)。また、幕府においては最高権力者である征夷大将軍は源氏が3代で断絶したため京都の藤原摂関家・皇室から名目上の将軍を迎え、実権は執権を代々世襲した北条氏が掌握した。
くわしくは鎌倉幕府を参照。
経済
基本は農業であり、平安時代以来の荘園領主や地頭が治める荘園・公領(荘園化されなかった国司が治める土地のこと)で農民たちが重税に耐えながら米・粟・稗・大麦・小麦などの耕作に励んでいた。農民であれ漁民であれ、村人たちはしばしば神仏に誓って連帯し(一味神水)、他村や領主側との交渉、時に武力行使にも及んでいた(入間田宣夫『武者の世に』)。
鎌倉に武家政権が成立した影響は商工業にも及んだ。鉄の鋳物は鎌倉初期までは河内国に産地が集中していたが、後期には鎌倉を擁する相模国が首位に立つようになった(笹本正治『異郷を結ぶ商人と職人』)。鎌倉には宋からの唐船も入港するようになり、材木や酒、陶器など諸国の産物が由比ヶ浜周辺の倉庫に積み上がって人口十万人前後に迫る新都市が形成された(山本幸司『頼朝の天下草創』)。諸国にも毎月特定日にのみ人々が集う定期市が立って、主に年貢作物が換金され、土地の産物が売り買いされるようになってきた(笹本、同書)。貨幣としては皇朝十二銭以降国内での公的貨幣鋳造は行われず、北宋から輸入された銅銭やその複製(私鋳銭)が流通していた(笹本、同書)。
- 私鋳銭…「びた銭」もしくは「悪銭」ともいう。江戸時代初期まで鋳造され、一説には質の悪さから四文で「銅銭」一文と同じ価値であったという。(「びた一文」という言葉はここから来ている)
金融では「借上」という後世でいう高利貸しが生まれ、御家人が借上に借金して土地を奪われる事態が問題となった(笹本、同書)。
仏教
鎌倉時代は、平安時代までの皇族や貴族のものであった仏教が、密教を持ち込んだ最澄や空海の登場を機に民衆レベルに広まり、その後に本格的な禅を広めた栄西や道元を始めとした禅宗など新しい宗派が次々勃興し、日本仏教が成立した時代としても知られる。
また、運慶・快慶のような力強い作調を特徴とする仏師が台頭し、鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)のように武家によって建立された寺院が各地にも建立されるようになった。
- 浄土宗(法然)…阿弥陀仏を信じひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽往生できるといった平易な教義で、民衆に仏教が広まるきっかけをもたらす。
- 浄土真宗(親鸞)…「南無阿弥陀仏」と唱えることで善人だけでなく悪人であっても真に罪を悔いれば「仏」に救われるという教義(悪人正機説)。親鸞は法然の弟子であり、浄土宗をさらに発展させたともいえる。また、この時代の僧には珍しく妻帯者であり、肉食・飲酒も罪であるとは考えてはいない。一時衰退するが、室町時代中期に現れた蓮如が本願寺を再興、「一向宗」という大名をもしのぐ一大教団に育て上げた。
- 臨済宗(栄西)…禅の一派。栄西は中国より茶を持ち込んだことでも知られる。
- 曹洞宗(道元)…禅の一派。永平寺を開いたことで知られる。
- 日蓮宗(日蓮)…「南無妙法蓮華経」と唱えることで人は救われると説いている。日蓮は幕府の政治・外交を批判したことで有名で、何度も幕府に捕らえられ、流刑の身となっている。
- 時宗(一遍)…浄土教の一派。新宗派というよりも踊念仏(踊りながら念仏を唱えること)や賦算(往生を約する札を配ること)等を特徴とする信徒集団(それゆえ当時は時衆と名乗った)。南北朝時代には従軍僧侶や間諜としても活躍した(森茂暁『南北朝の動乱』)。
衣服
武士
男性の礼装は水干。平安時代には地方武士の服装であったが、幕府では将軍をはじめとした武士たちの正装となる。狩衣と同じ円頸(まるくび)の襟は公家たちと同様であったが、実用優先の武士たちには着苦しかったようで、襟を折り込んで後述する垂領にすることが流行した。日常着は直垂であった。垂領(たりくび)と呼ばれたVネックの首元は公家からすれば庶民の服に見えたが、活動的であり、武士には好まれた。上衣は胸の辺りで紐で結び、袴は裾に紐を通し括り袴としていたらしい。しかし次第に礼装に直垂が用いられるようになり、室町時代のように飾りの多いものが増えていった。頭に被る烏帽子は風折烏帽子が一般的。成人男子の証しであったため、外すのは恥であり日常でも外さなかったらしい。
女性の礼装は、平安の女房たちに概ね準じていたらしい。いわゆる十二単から唐衣と裳を省略した袿袴は下着の小袖に袴を穿いて単と袿を重ねたもの。外出着には壺装束が見られた。袿をからげ、裾をつぼめて動きやすくしている。頭には市女笠(いちめがさ)を被って、薄布を垂らしていた。
公家
男子の正式の礼装は、平安時代に続いて束帯。半臂が省略されるようになり、邪魔になりがちな下襲は取り外しできる別裾となってきた(ただし天皇と皇太子は除く)。なお、正式の束帯は儀式用となり、普段の宮中勤務に用いられたのは束帯を簡略化した衣冠である。直衣が公服として参内での着用も次第に許されるようになり、普段着としては小直衣が使われた。平安時代と同じく、参内時は冠、日常は立烏帽子を被った。
女子の礼装は平安時代に続き女房装束(いわゆる十二単)。あまりに多数の袿を重ねることが流行った為、五枚までに制限する五衣の制が出されたりしている。
庶民
袖の小さな小袖で裾もたくし上げ、活発な活動を可能にしていた。下には男女とも袴をつけることが多かったが女子には褶(しびら)を腰にまとうケースも多く用いられた。この頃は庶民でも男子は烏帽子を被っており、特に萎烏帽子が一般的であった。