概要
貴族というのは後述の通り日本の律令制度で定められた用語であるが、欧州もしくは中国など世界各国の同様な人々を指す訳語としても流用されている。
- 日本の貴族(本記事で詳述する)
- 欧州の貴族(本記事で詳述する)
- 中国の貴族(本記事で詳述する)
(以下、文章がまとまり次第他の国の事例も追記願います。)
日本の貴族
日本語でいう「貴族」の元来の意味は、飛鳥時代末期に成立した律令制度に求められる。飛鳥時代に朝廷で権力を振るっていたのはいわゆる豪族であるが、朝廷に忠実な豪族に律令による官位が与えられると、彼らは「貴族」と呼ばれるようになった。律令制では三位以上の貴人が「貴」、四位と五位が「通貴」と呼ばれ、その一族を合わせて貴族と呼ぶのである。以降、平安時代までの朝廷を動かしていたのが貴族であるが、平安後期に武家政権が成立して以降は公家と呼ばれるようになった。現代では先述の通り一般に貴族といえば欧州貴族を連想することも多いので、例えば平安時代の貴族を特に呼ぶ時は平安貴族と呼んだりもする。現代でも貴族というと武人よりも文官を想像しがちな背景には、このような貴族の元来の意味があるのであろう。
飛鳥時代以前の貴族
⇒豪族を参照のこと
奈良時代の貴族
大宝元年(701年)に制定された大宝律令で貴族が成立して間もなく、平城京が築かれて奈良時代となる。この頃には律令制度の中枢意思決定機関である太政官の議政官には各氏族の代表者会議としての意味合いがあった。すなわち、安倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏、石川氏(蘇我氏の後裔のこと)といった貴族からの代表者1名がそれぞれ議政官となって朝廷を動かしていたのである。これらの多くは飛鳥時代以来の各地の有力豪族の後裔にあたる。しかし次第に藤原氏が複数の議政官を送り込むようになり、代わって多くの氏族が没落していった。
平安時代の貴族
桓武天皇が平安京に遷都して後、貴族の顔ぶれも一新されていった。その大きな特徴は皇族から臣下となった貴族の増大である。具体的には奈良時代以来の橘氏に加えて桓武天皇の後裔などの平氏、清和天皇の後裔などの源氏であり、こうして源平藤橘という後世でいう代表的名家が成立した。しかしこれも、藤原氏が高位の公卿をほとんど独占するようになり、他の氏族はほとんどが没落していった。その頂点に立ったのが摂関家であり、摂政・関白という天皇を代理する地位を独占して朝廷を支配する権力を手中に収めていた
そんな中で、天皇の子孫という高貴な血筋を武器に出来る源氏や平氏は、地方に進出して各地の武士たちを配下に従え、その軍事力を利用して逆に中央での栄達を図るという軍事貴族という生き方に活路を見出した。藤原氏の傍流をはじめ、高位に昇れないその他の貴族たちにもこのような軍事貴族を目指した者たちは少なくない。有力な軍事貴族は受領として各国の支配者となり、富を蓄えた。
平安時代の末期には藤原氏に代わって治天の君による院政が全権を奪うようになった。院政は軍事貴族の軍事力や受領としての経済力を傘下に収めて政敵を排除するようになる。ところが重用された軍事貴族への恩賞に限界が来てしまう。彼らは藤原氏に代わって高位に昇り、近衛大将や征夷大将軍として全国の武士たちを動員できる強大な権限を持つようになった。軍事貴族は朝廷を軍事力で左右できるようになり、治天の君にもコントロールが出来なくなってしまった。かくして軍事貴族は武家として日本の支配者に伸し上がっていく。鎌倉時代の始まりである。これに対してすっかり脇役となってしまった従来の貴族は公家と呼ばれる。だが天皇を擁した彼らの政治力は、その後の中世社会でも侮りがたい力を残すことになる。
鎌倉時代以降の貴族
⇒公家を参照
欧州の貴族
多くの現代人が「貴族」として想像するものは主に19世紀(特にヨーロッパ)の貴族像で、国王・皇帝から公認された爵位によってランク付けされ、参政権・儀礼・収入などの社会的特権を世襲し、富裕で華美を好み、貴族だけの社交界を形成して独自の文化を持つ、といったものであろう。日本語でも貴族と現代呼ぶときはこのイメージが強く、日本の近代に存在した華族を基準に、その前身の一つである公家、制度的な模倣元であるヨーロッパの近代貴族が混ざってイメージされる傾向にある。
ただし、欧州の近代貴族は日本の公家とは相違する点が多く、欧州貴族を華族の類推で理解するべきではない。欧州近代貴族の母体は中世の封建領主だが、封建制は日本ではむしろ武家の制度であり、中世欧州貴族を理解するには華族や公家よりも武家と対比するほうが正確である。この相違は近代に至っても爵位に対する考え方や貴族の範囲の違い(後述の「貴族と見なされない場合のある身分」を参照)に残っている。もちろん、日本の華族には実際には多くの武家(江戸時代の旧大名家)が含まれていることも念頭に置く必要がある。
詳細
貴族は多くの場合富裕で何らかの制度的特権を持っていたが、「貧乏貴族」「没落貴族」という言葉は洋の東西を問わず存在し、経済的富裕さや公権力の大きさが貴族の必要条件となっているわけではない。また近世国家では「一代貴族」のようなものも存在するので、血統による世襲・相続も絶対必要と言うわけではない。ただし、経済力や公権力を代々相続(世襲)することでそれ自体に価値を持たせるようになった歴史がある。歴史用語としての広義の貴族は、血統自体の価値が不安定な成り上がりの過程から、血統だけに価値があるようになった状態まで、幅広い状態を指す。
そういった「貴族」が成立するには、以下のようなルートがあった:
- 富裕で政治力もある市民が、コネと相続と教育により富を子孫にも継承し、代々顕職を輩出するようになった家系(古代ローマのパトリキ・ノビレス、中世イタリアのシニョーレ、近世フランスの法服貴族)
- 土豪的大土地所有者や土着した官僚がその資産・地位を相続するようになり、中央政権と一定の関係を持つようになった家系(西欧一般の封建領主)
- 君主が家来として信用できる家系を選んで要職につけている場合(恩賞として封土を与えられた封建領主)
- 「貴族」という身分制が確立した後に、身分そのものを報償ないし売買で得た者(近世国家など)
以上のように起源は様々であり、血統へのこだわりも地域や時代で差があった。たとえばハプスブルク家では両親ともに貴族でなければ地位を相続できず、庶子は格下げされた。このような社会では貴族は貴族どうしでしか結婚しなかった。一方で血統へのこだわりが弱い貴族社会もあり、例えば古代ローマでは旧来の貴族パトリキの力が衰えると庶民の新興富裕層と合流してノビレスという新しい貴族層を形成している。イングランドでは片親が平民でも貴族の位を継ぐことが出来、貴族院の議席は世襲の男爵以上であるものの、地主にさえなればジェントリとして貴族社会の一員として扱われ、政府官僚として頻繁に登用された。
また地域・時代によって貴族が世襲する社会的特権も異なった。中央政府が弱く地方分権的な社会では、大地主が貴族となることが多かった。中世ヨーロッパの貴族はそのようなものである。中央集権化(絶対王政・専制君主制)が進んだ国では、中央官僚を独占するようになった血統が“身分が高い”と見なされこれを貴族とする考え方が強かった。初期ローマや近世以降のヨーロッパの貴族はこれに該当する。
貴族の特権
一般的には貴族は富裕で社会的特権を持っているというイメージがある。しかし一口に貴族と言っても、別の国の別の制度をひとくくりに貴族と呼んでいるため、その実態は時代、国、貴族としてのランクで大きく異なる。
貴族の中でも定義やイメージは異なる。一つ目は中世ヨーロッパの封建領主である。一定の土地を所有し、その範囲内の住人を配下とし、権利を持つ一方で、主君の命令に従った軍事的な負担の義務を担っていたとも言える。広大な領地を持つ貴族がいる一方で、貴族が多い国や地域(スペインの特に北部、ハンガリーなど)では、最下級の貴族は政治や軍事に関する些細な特権しかなく、財産も庶民と大差がなかった。
貴族のイメージの二つ目は、中世や近世になって登場した、地主や商人として経済的に恵まれ、その経済力を背景に官僚や議員を輩出するようになった一族である。力の源泉が自身の経済力である以上、こういった貴族はおしなべて富裕であり、文化的にも優雅・華美を好む傾向が強かった。収入の源泉が別にあるので何かの義務があるわけではなかったが、資産家は公共へ奉仕する義務があると考えられていた。こういったタイプの貴族は、戦乱を生き残って貴族であり続けることがある一方、経済構造の転換で没落することもあった。
ポーランドのシュラフタは貴族という言葉で呼ばれることが多いが、実態は古代ギリシャ・古代ローマに近い存在であり、参政権のあるだけの庶民が多数であった。学者によってはシュラフタ草創期の役割から「士族」の語を充てることもあるが、黄金期のシュラフタはそうではなかった。
近世にも貴族は現実的な特権も存在はしたが、議会議席など参政権の面が中心であった。現代では貴族称号を持つ君主の一族でもない限り、「爵位を名乗れる」というくらいの特権しかない。
中国の貴族
中国においては、いわゆる三国時代の魏文帝(曹丕)の220年に始められた九品官人法によって貴族制度が成立したとされる。ただしここでいう「貴族」は日本の東洋史研究で用いられる訳語であり、中国史学では当時の用語である士や士大夫という意味合いで「士族」と表現する。この九品官人法はその土地その土地に中正官という専門家を派遣して人材を発掘させ、優秀な人物を登用する仕組みである。中正官の評価を郷品と呼ぶが、時代が下るにつれて評価の基準において親の郷品が重視されるようになった。親が高い郷品を得て高位の官僚となれば、子も自動的に高い郷品を得て高位の官僚となる仕組みである。こうして魏晋南北朝時代を通じて、中国は実質的な貴族制の社会となった。
隋に至って九品官人法が廃止されて科挙が導入された。これが唐に引き継がれて能力主義の人材登用が目指された。しかし科挙の責任者たちは受験生たちと朋党を組み、師弟関係によって有力者の子弟は圧倒的に有利な制度となった。しかも門閥貴族出身者は恩陰・任子といった特例制度を利用して科挙を経ずに高位高官を占め、むしろ科挙出身者は冷遇された。隋唐時代の家格意識は非常に強いものであり、唐の初め、皇帝が下剋上を果たした後に家臣に家格の一覧表の作成を行わせたところ、皇帝自身が三等に格付けされ激怒したほどである。かくして唐代に至るまでが中国における貴族制の社会とされる。
唐の後半には次第に科挙出身者が官僚として活躍するようになり、次第に貴族制は崩れていった。北宋に至って科挙の制度が改革されて厳格になり、不正の入り込める余地は少なくなって貴族制度は完全に崩壊した。そして代々科挙を受験して高位に上る士大夫と呼ばれる人々が取って代わった。もっとも科挙を受験し合格するには大変な費用と教養が必要とされたので、貧民が政界で出世するような道はほとんど閉ざされていた。
異民族王朝であった元朝では、貴族制度が一時的に復活していた。
フィクションにおける貴族
世界各地に貴族はいる/いたのだが、ヨーロッパ的なものが多い。
基本的に一応ファンタジーにもいるのだが、SF、特に宇宙を舞台とする作品に見られる。
しかしそれらの大多数に共通するのが「貴族の責務を果たす少数の有能と政治の腐敗の温床たる多数の無能」というテンプレである。
無能の割合は爵位や血筋が良くなるほど高くなり、逆に下級貴族や地方領主ほど有能が増える傾向にある。
これは主に平民と接する機会の多寡による良識の有無が大きい。
才能もなければ努力もせず、祖先の威光を傘に着て義務を果たさず権利だけを主張する大貴族は差別される平民はもちろん、改革を志す下級貴族や例外的な大貴族の良心的存在たち、果ては国の腐敗を正そうとする王族にとっても敵である。
加えて上記の理由から(部下はともかく)上級貴族自身は愚かで実力もないことが多い。
つまるところわかりやすくバカな悪役には最適であり、銀河英雄伝説など過剰なまでに無能さが誇張されている場合も少なくない。また時代劇等でも武家と比較して公家は傲慢なイメージで描かれやすい。そして同じ武家でも今川義元、大内義隆といった公家的な面の強い人物は軟弱に描かれる傾向が近年まで見られていた。
ミステリーやサスペンス等現代日本が舞台の作品では貴族の代わりとして閉鎖的なコミュニティに住まう人々を土地貸しと借金で支配する『大地主』が用いられる事が多い。
外部リンク
関連イラスト
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爵位の種類
以上はヨーロッパで比較的多い爵位(を、古代中国由来の呼称とそのバリエーションに当てはめた和訳)で、ヨーロッパでも国や地域によってはそれ以外のマイナーな爵位もある。詳しくは ⇒ 爵位記事参照。
貴族と見なされない場合のある身分
高い側
中国式の専制君主国家では君主と臣下の別は絶対であるが、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国の例のようにそこまで区別が厳密ではなく、国王も含めて広義の貴族のうち、広義の貴族という考え方が強い。これは征夷大将軍まで含めて武家のうち、という感覚に近い。
低い側
準男爵 ジェントリ 騎士 ナイト …現在は「正式な貴族」ではない(貴族院に議席が持てず、敬称もSir/Dameで貴族用のLord/Ladyではない)が、中世においては貴族の末端として扱われ、近世に至っても社交界に出入りできる上流階級という扱いを受けていた。
市民 …古代の市民は、参政権などの特権があるという点である種の特権身分だった。