概要
日本史の時代区分の一つ。飛鳥時代(白鳳時代)の次、平安時代の前。
一般的には奈良の平城京(奈良県奈良市)に都が置かれ、政治・文化の中心が同地であった時代のこと。
和銅3年(710年)に藤原京から平城京に遷都されてから延暦13年(794年)に長岡京(京都府向日市・長岡京市ほか)から平安京(京都府京都市)へ遷都されるまでの期間が(厳密には奈良以外に都が置かれていた時期も含め)通常「奈良時代」と称されている。
政治
平城京遷都の理由は、上京した人々や外国の使節が圧倒されるような大きな都が必要とされたためと考えられている橿原考古学研究所QA。東西約4.2km南北約4.8km、総人口は6~10万人という壮大な都であった。計画としては天皇と貴族たちが長年構想していたらしいが、建設の中心人物は藤原不比等らであった。こうして始まった奈良時代、皇族政治家と最有力貴族藤原氏とが激しく政争しては政権交代が繰り返された。具体的には、
当時の基本法は飛鳥時代に定められた大宝律令が引き続き用いられ、天平宝字元年(757年)に養老律令に替わった。律令制度が完成から次第に動揺に向かっていく時代であった。戸籍により班田が支給される公地公民制であり、租庸調と雑役という税が課せられた。しかし班田の確保が追い付かず、開墾を奨励する優遇策が取られた。長屋王の三世一身法や橘諸兄の墾田永年私財法がそれである。開墾した田は開墾者のものとなり、班田も確保されたが、同時に土地の私有化が進み公地公民制の崩壊と荘園の誕生につながっていった。
文化
都である平城京を中心に天平文化が栄えた。遣唐使の最盛期でもあり、多くの文化や技術が導入された。東大寺の正倉院には、当時の史料・宝物が数多く残されており、その産地もシルクロードを経た西アジアにまで至る。天平文化の国際性がうかがえよう。
仏教
諸国に国分寺と国分尼寺がそれぞれ建てられ、仏教文化が地方にも広がっていく一因となった。平城京には総国分寺・総国分尼寺として東大寺・法華寺が建てられ、東大寺金堂には巨大な大仏が据えられた。その他、興福寺、薬師寺、唐招提寺等の寺院が建てられ、多くの仏像が残された。遣唐使と共に度重なる失敗を乗り越えて鑑真という高僧が来日した。鑑真は正規の授戒資格を持っていたため、日本には欠けていた正規の授戒制度が誕生し僧の資格を公的に認定する仕組みが誕生した、
文学
末期に『万葉集』が成立し、全20巻4,500首以上もの和歌が収められた。漢詩集の『懐風藻』、また歴史書として『古事記』と『日本書紀』とが成立している。