天平5年(西暦733年)~延暦18年(西暦799年)2月21日。
生涯
称徳天皇の時代、天皇から目をかけられていた道鏡という僧がいた。彼は大臣禅師、太政大臣禅師と出世をとげ、文武百官に礼拝され、ついに官の最高位であり天皇に準じる法王にまでのぼりつめた。
神護景雲3年(西暦769年)、大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曾麻呂が「法王の道鏡を天皇にすれば天下泰平となるだろう」との宇佐八幡宮の神託があった事を伝えた。
そこで称徳天皇は、地元岡山県方面の新興豪族出身の下級貴族であった和気清麻呂を、神託の真偽をたしかめるために宇佐に遣わした。出発に際し、道鏡は清麻呂に対し、「良い返事をもって帰れば、貴公に高位高官を与えよう」と語ったと言う。
しかし、八幡大神から
わが国、ひらけてより以来、君臣さだまりぬ。臣をもちて君とすることは、いまだあらず。
天つ日嗣は、かならず皇緒を立てよ。無道の人はすみやかに払い除くべし。
という神託があり、清麻呂はそのまま天皇に報告申し上げた。上皇(と道鏡)は怒り、清麻呂の官職を解いて左遷した。姓もいやしい「訳部」、名も「穢麻呂」にあらためさせられた。
こののち、道鏡の即位は立ちきえとなった。称徳天皇が崩御されると、皇太子の白壁王(光仁天皇)は、力を失った道鏡は下野国の薬師寺別当に左遷された。光仁天皇が即位されると和気清麻呂はたちまち復権し、官位も従五位下に戻された。ただし後には従三位までのぼり、死後には正三位を贈られ、地方豪族としては異例の出世を果たしている。
復権から10年近くを経て、桓武天皇の即位とともにいっきに四ランクアップの従四位下になり、清麻呂の人生は大きく転換していくこととなる。
和気清麻呂は桓武天皇の側近グループの一人、ブレーンの有力なメンバーとみられている。
摂津識の長官として長岡遷都へのムードづくりをし、長岡京造営にてがらがあったとしてはやくも従四位上に位を上げられた。
旧来の仏教勢力から訣別し、その宿弊から逃れて政治を立て直すとともに、仏教そのものを新生させる事を願った。
遷都後も造営に8年の歳月をかけ、完成も近くなった長岡京に、2度も大水害が起こった。そこで真っ先に平安遷都を提案したのは、河川の改修工事の責任者であった和気清麻呂であった。後に清麻呂は造宮大夫(長官)に任命され、平安京造営事業全体の責任者になった。
平安京はこののち、途中の平清盛の福原遷都を除き、明治2年の東京奠都まで帝都として存続した。
また国内体制の整備の面でも、国民や農地の管理にあたる民部省の長官をつとめた和気清麻呂は、省内にたくわえられた施行細則としての「例」を集成した『民部省例』20巻をまとめている。
和気清麻呂が登場する作品
- 里中満智子の「女帝の手記」。仏教に帰依して法均と称した姉の広虫と同様、女帝・孝謙上皇に仕える若き青年官吏で生真面目な性格。淳仁天皇を擁立した藤原仲麻呂の圧政に対し、吉備真備や道鏡と共に孝謙上皇に与して立ち向かう。称徳天皇として復位した女帝の信認を得るが、清麻呂自身は天皇の道鏡への偏愛を疑問視するようになる。宇佐八幡宮事件では、当初天皇の意を受けて「道鏡に皇位を讓る」神託をもたらすつもりだったが、都への帰路に刺客の襲撃から偶然の落雷に救われたことに「神意」を感じ、苦悩の末に神託の政治利用を神への冒涜と考え翻意する。結果、天皇に反対派への寝返りを疑われ、姉と共に流罪となった。
- 国際情報社の「道鏡」(イラストは山田ゴロ氏)。丸顔で温和な中年の男性で描かれるが、どこか中国の軍師風。当初はまともな僧だったが野望に狂いつつある道鏡の姿に疑問を感じ、恫喝を受けたときには義憤に駆られる。続日本紀に記されたように正当な神託を伝えたために叱責され、都を追い出された。
- 小林よしのりの「天皇論」シリーズ。奈良時代の官僚らしく唐風の衣冠に身を固め、恰幅の良い美髯の男性でやや中国風。初期シリーズこそ淡々とした扱いだったが、「女性天皇の時代」では法や皇統に対して馬鹿正直なまでに生きたことを熱く書かれる一方、「わけのわからんきよまらん仕打ち」と言う親父ギャグにされるなどネタ扱いされる。
- 少年少女日本の歴史(小学館)。皇室と国家に忠誠を誓う名臣…だが、道鏡の豹変ぶりと彼が有罪か無罪かも疑わしい部分もあるのと、女帝&道鏡がメインと言うこともあって影が薄い。
- 両さんの日本史大達人(集英社)。服は唐風だが冠は日本風、あごひげと角ばった顔が特徴。小悪党の道鏡が「わしが天皇になってやる」と嫌らしくほくそ笑んでいる所に「神のお告げだ、許さん!」と登場して簒奪の危機を防ぐ正義の味方である。