大納言・大伴旅人の長男で、哀愁をたたえた抒情歌に特色がある歌人。聖武天皇から桓武天皇まで仕えた。
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、律令制下の高級官吏として延暦年間には中納言にまで昇った。孝謙天皇期以降は政争に巻き込まれることが多かった。橘奈良麻呂の乱では大伴古麻呂らの親族を多数失い九州へ飛ばされ、桓武期には氷上川継の乱に連座し東北へ飛ばされるなど官人としては晩年近くまで不遇であった。藤原種継暗殺事件では古麻呂の子である継人が処刑され孫の国道(ちなみに彼の子が伴善男である)は佐渡に配流されたが家持も関与したとして大同1年(806年)まで官の籍を除名された。
『万葉集』に全体の1割を超えている和歌を残しているためか、『万葉集』そのものの編纂に関与していたと考えられている。
小倉百人一首では、「中納言家持」として掲載されている。
- かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
カササギが翼を連ねて橋として渡したと伝わる七夕伝説にある天の川の、ちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを見ていると、夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。