概要
奈良時代における大和朝廷の文官で、日本最古の歴史書である『古事記』の制作者の一人として知られ、元明天皇の命により、舎人であった稗田阿礼が暗記して口述した各家に伝わる歴史伝承を筆録編纂し、古事記を書き上げたとされる。
太氏(多氏)は神武天皇の子である神八井耳命の後裔とされ、科野国造などが同族とされる。
昭和54年には奈良市北八木町で彼の墓が発見され、墓には墓誌もあり、それによれば古事記を書き終えたとされる和銅5年(712年)から、約10年後の養老7年(723年)7月6日に没したとされる。
日本文学の創始者
彼は古事記の執筆において、古代日本語を重視し、漢字を原則的に表音文字として使用して、日本語を日本語の発音のままに記そうとする努力を示しており、もし彼が古代日本語を発音の通りに遺す努力をしていなければ、漢字文化が入ってくる以前の日本の言葉がどのようなものであったかが解らなくなっていたとされる。
更に表音的に記されたその文章には、表意的なもの混じっていて、そのため表音文字として使った漢字は後に仮名の元となり、漢字の一部を音として使ったもの(これを借字という)が『片仮名(カタカナ)』に、その借字を草書で簡単に書いたものが『平仮名(ひらがな)』となった。
例を挙げると片仮名の「う」は「宇」という漢字の冠を取って生まれたもので、平仮名の「い」は「以」という漢字を筆で書いた形であり、借字から二つの形態が生まれ、その母体となり得る最初の書物こそが太安万侶の執筆した古事記なのである。
こうした、表音文字として一度使い切った文字を、表意文字としても使い続けたことは、世界的にも他に例が無く日本のみであり、それが音・訓の元となって、例えば水の流れを「水流」と書いたり「水の流れ」と読むこともできるなど、日本語独特の表記法が形づくられていき、古事記における太安万侶の書き方がその源となっている。
いわば日本の文学の豊かさの起源は古事記にあるとされ、太安万侶は日本文学の創始者とも言える。