解説
長屋王とは奈良時代に活躍した皇族の政治家である。天武天皇5年(676年)生まれ(異説あり)、神亀6年(729年)没。
父は持統天皇時代の政治を太政大臣として差配した高市皇子である。
有力な皇族の子として大宝4年(704年)に当初から正四位上の高位で朝廷に出仕。
文武天皇・元正天皇の実妹である吉備内親王を妻にし、更に当時の朝廷を主導する藤原不比等の娘も妻に迎えることで立場を固め、養老2年(718年)には大納言として不比等に次ぐ朝廷の有力者となった。
養老4年(720年)、藤原不比等が死去すると朝廷の最有力者となり、右大臣から左大臣に昇った。
その政策は律令制を維持しようと開墾を奨励している。
養老7年(723年)に三世一身法を施行し、新たに田地を開発した者には三代に渡る私有を認めた。
しかし、神亀6年(729年)に聖武天皇の命により、兵が邸宅を囲んで長屋王は自殺した。
この時、有力な皇位継承者であった吉備内親王とその子たちは死んでいるが、藤原長娥子とその産んだ諸王はお咎めなしであった。
政変を主導したのは藤原不比等の子である藤原四兄弟であると考えられているが、皇位継承を巡る最大の脅威であった吉備内親王を葬り去ることが出来た聖武天皇にも積極的に加担する動機はあったとする見方もある。
仏教に帰依し、大般若経600巻の書写を二度行っている。
また、唐に千着の袈裟を送ったが、その刺繍にあった漢詩が鑑真に日本行きを決意させたともいう。
山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁
(日本と中国では山河は異なる しかし吹く風仰ぐ月は同じである)
(それ故大勢の仏弟子が集って 共に来るべき縁を結ぼうぞ)
この詩は令和2年(2020年)のCOVID-19パンデミックの際に日本から中国に送られた支援物資の包装にも書いてあったといい、中国のネットユーザーから高い評価を得られたとされている。
実際に長屋王は文化人でもあり、『懐風藻』には漢詩、『万葉集』には和歌が残されている。
昭和63年(1988年)、奈良市で発掘調査が行われていた現場で大量の木簡が見つかり、長屋王の邸宅跡であったことが判明した。