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太政大臣

だいじょうだいじん

律令制時代の朝廷(古代~中世の日本政府)の最高官職で、官職は藤原氏が独占していた。
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日本官職で、古代から連綿と続く律令制度においては行政を司る太政官の最高職。唐名は「相国」と呼ぶ。飛鳥時代から明治時代内閣制度成立まで存在した。

なお後述のように常設ポストではなく、相応の実力者が出現したときに任命されている。


飛鳥時代~奈良時代編集

大友皇子(後弘文天皇)が任じられたのが初代である。この頃の特徴は仁徳で選ぶ傾向が強く、適格者がいなければ置かない則闕の官といわれた。大友皇子(後の第39代・弘文天皇)や高市皇子の任命がそうであったように実質的には皇太子に準ずる地位であり、長くめったに任命されるものではなかったのである。例外が藤原仲麻呂道鏡であり、言わば皇太子以上の権力を許された絶対権力者のみが就任していたのである。

謁見



平安時代初期編集

平安時代初期に藤原良房が任じられて以降は、主に藤原摂関家の当主あるいは有力者が就任した。良房は幼い清和天皇に代わって天皇の権限を代行したため、この当時の太政大臣とは摂政の権限を持つ大臣であった。摂政とは清和天皇の勅に「天下の政を摂行」せよとあったことに由来する。良房の子藤原基経陽成天皇の元で太政大臣として摂政を務めたが、次の光孝天皇は基経より年上であった。そこで基経には天皇への奏上や天皇の裁可を事前に見る特権(この特権を内覧と呼ぶ)が与えられて、摂政に代わる太政大臣の天皇の権限を代行できる根拠となった。これが宇多天皇のときに万事を「みな太政大臣に関わり白」せという詔の形式で太政大臣を任ずることになった。後世でいう関白である。つまり、太政大臣とは、摂政もしくは関白の権限を持った大臣となった。


平安時代後期編集

転換点は一条天皇の即位に際して、姻戚関係のない太政大臣・藤原頼忠が、摂関の地位を天皇の外祖父たる藤原兼家に譲った時である。頼忠には大臣を辞任するような科はない為、兼家が摂政で頼忠が引き続き太政大臣となった。こうなると、実は太政大臣にはほとんど実権はない。最高意思決定機関たる太政官議政官の議事を纏めるのは左大臣であり、その奏上に裁可を下すのは摂政や関白で、太政大臣はどちらの意思決定にも関与しないからだ。こうして太政大臣とは、藤原一族の長老を遇する名誉職となっていった。事実、摂関家にとって重要なことは天皇の御所に娘を入内させ、天皇の寵愛を受けることで次の天皇の外祖父となって朝廷の実権を握ることであった。よく知られている例として一条天皇に入内した藤原道長の娘・彰子と道長の甥・藤原伊周の妹・定子の争いが有名である。周知のとおり勝者となったのは摂関家の権力の絶頂を築いた道長である。道長は晩年になってようやく太政大臣に就任するが、長く内覧兼左大臣として実権を握った。

玉林


中世編集

しかし、道長の孫・藤原師実に入内させるべき娘がいなくなると摂関家の衰退がはじまり、天皇を退位した上皇法皇による院政がはじまることとなった。院政期が本格化すると摂関家による介入を拒んだ天皇家により村上源氏の久我家や武家平清盛)が任ぜられる事例も現れるようになる。なお平清盛の太政大臣任命は、清盛を上記のように議政官から排除して影響力を削ごうとする狙いがあったとも言われている(そのことを察した清盛は100日あまりで太政大臣職を辞している)。室町時代での著名な太政大臣任命例としては、足利義満が挙げられる。この頃には太政大臣どころか朝廷の官職全般が名誉職化していたようで、実態としての権力と軍事力を持つ義満は公家たちを北山の邸宅に呼びつけて朝政を総覧し、邸宅に外交使節を迎えるための迎賓館を併設していたという(邸宅の一部は、現在、鹿苑寺(金閣寺)になっている)。


太政大臣・織田信長?平家復興?編集

戦国時代を経て、天下統一を目指した織田信長に対して、朝廷との間で関白・将軍・太政大臣のどの職に就くか?という相談があったらしい(三職推任問題、『晴豊公記』天正十年夏記)。これに対して信長は太政大臣として武家政権を築いた平清盛の先例に倣い、太政大臣を望んだともいう。根拠は信長が清盛の孫・平資盛の子孫を自称し、清盛と同じ馬印を用いていること、羽柴秀吉毛利輝元に送った書状の中で、信長のことを「大相国(太政大臣の唐名)」と呼んでいること等である(橋本政宣『近世公家社会の研究』)。しかし、信長は逆に提示された3つの地位を辞退したとも言われてもおり、いずれにせよ、真相は信長と共に本能寺の変の業火の中に消えてしまった。

羽柴秀吉も豊臣秀吉となってから就任している。


江戸時代編集

幕府側では他は右大臣に任じられているが、初期の征夷大将軍である徳川家康徳川秀忠、後期の徳川家斉の3人が太政大臣に就任している。

またそれ以外には五摂家の実力者が就任した。

養老律令での最後の太政大臣は鷹司政通で、嘉永元年(1842年)に辞任してからは空席となり明治維新を迎えた。


明治朝廷編集

明治維新後の太政官制下では天皇を補佐する行政の最高機関である正院の長がこの職名を名乗るが、実権は左大臣に任じられた島津久光がすぐに帰国・隠退したこともあり、右大臣岩倉具視、参議・西郷隆盛や大蔵卿・大久保利通、内務卿・木戸孝允などが握り、職務としては議事を裁可するにとどまった。

明治18年(1885年)に内閣制度が発足したのに伴い太政官及び太政大臣職も消滅する。

なお、明治政府における太政大臣は終始三条実美が務めている。

ちなみに実美は維新までの公家家格で「太政大臣まで昇進できる」とされた9つある清華家のひとつ三条家の出身である。


余談編集

三条が太政大臣を勤めた期間は1871年9月13日から1885年12月22日までの14年3ヶ月と10日、日数に直せば5214日に及ぶ。この日数は明治時代の内閣総理大臣の・桂太郎の2886日を遥かに上回り、戦後最長の安倍晋三をも上回る、明治以降の日本の政府首班の在職日数として(実質的な決定権は参議らにあったとは言え)最長のものである(同時に在職した久光の後継の左大臣・有栖川宮熾仁親王・右大臣・岩倉具視も桂の在職日数を上回る)。


清華家編集

上記のとおり「太政大臣まで昇進できる家」。華族(花族)、英雄家ともいわれる。

  • 清華家に属する家名…三条家(旧名、天法輪三条)、菊亭家(旧名、今出川)、徳大寺家、西園寺家、花山院家、大炒御門家、久我家、醍醐家、広幡家。(九家あるので「九清華」とも呼ばれている)

ちなみに九家のうち七家は藤原摂関家の庶流であり、残る二家のうち久我家は村上源氏の末裔、広幡家は桂宮家の分家である。


主な太政大臣歴任者編集


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